自分の感情に責任をもつ

よく言われることですが、ひとつの事実をどう観るかは人それぞれに違い、10人いれば10通りの見方があります。そのため、人と対話をするときには、自分の思いや考えを一旦、棚上げして相手の話をきき、その人の話をその人の立場に立って受けとる必要があると言われています。
こうしたセオリーからわかるのは、感情や行動を引き起こすきっかけとなる事実は人間の外側にあり、それを観る人間の眼やきく耳などの五感を通じて人それぞれが「刺激」を受け、その人なりの感じ方や価値観、解釈が「原因」となって、自分の感情や思い、考え、行動が生まれてくるということです。もしも、人間の外側にある事実が「原因」だとしたら、誰もが同じような感じ、思いをもつでしょうが、事実は「刺激」でしかなく、「原因」は人それぞれの感じ方や価値観、解釈だからこそ、同じ事実に対して人それぞれに異なる印象をもつわけです。


しかし、日常の人とのやりとりを思い浮かべてみると、そうした「刺激」と「原因」はほとんど区別されていません。例えば、親がゲームばかりしている子どもを観て、「またゲーム?もう、うんざり」と言ったとしても、それほど意外に思う人はいないでしょう。ところが、実はこのセリフは「刺激」と「原因」を混同しています。親が「自分がうんざりする原因は、自分の外側の事実、ゲームをする子どもにある」と言っているからです。そうではなく、「あなたがゲームだけに時間を費やしている様子を見ると、私はうんざりする。あなたにはいろんなことに興味をもってほしいと思うから」と言えば、「刺激」と「原因」は区別されます。
ふたつのセリフから受ける印象はどう違うでしょうか?

単に例文として読んでいるだけだと、「刺激」と「原因」を混同した言い方のほうが簡潔に思えて、「刺激」と「原因」を区別した言い方はまわりくどいとか、理屈っぽいと思えるかもしれません。

しかし、子どもの立場に立ってみると、「刺激」と「原因」を混同した「またゲーム?もう、うんざり」という表現は、ゲームをする自分が親をうんざりさせているのだと加害者性を指摘された強いメッセージであり、自分を守ろうと反発するかもしれませんし、やがてゲームをすることに罪悪感を抱くようになるかもしれません。
一方、「刺激」と「原因」を区別した「あなたがゲームだけに時間を費やしている様子を見ると、私はうんざりする。あなたにはいろんなことに興味をもってほしいと思うから」という表現の場合は、ゲームが悪いというより、幅広い興味・関心をもってほしいという親の望みが子どもに伝わるような気がします。

さらに、この表現は、親もひとりの人間として、子どもに期待する自分の思いとは異なる現実に直面して、うんざりしたことをそのまま伝えており、自分の感情の原因は自分にあることを認めています。
こうした自分の感情に責任をもつ表現をすると、人間一人ひとりの世界が異なり、一人ひとりに自分で感じ、考え、行動する自由があることが明確になるように思います。

今年6月に日本語訳が発行された、世界中で読まれているマーシャル・B・ローゼンバーグの非暴力コミュニケーションの本「NVC 〜人と人との関係にいのちを吹き込む法」を読んで、改めて大切だと思ったことを書きました。