バフチン、ヤーコ・セイックラの言葉によるギフト

 国重浩一さんのワークショップで下記のような言葉に出会った。
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 バフチンによれば、自分自身を知るのは、他者の目を通じて自身を見ることによってのみ可能なことなのである。私は、他者の目を通じて私自身を見る(Bakhtin, 1990)。バフチンの考えでは、私たちが、存在している人として自分自身を見たければ、鏡に映った自分を見る際に、他者の目を借りるしかないのだ。

Seikkura, J(2008). Inner and outer voices in the present moment of family and network therapy. “Journal of Family Therapy”, 30:478-491

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 オープンダイアログのSeikkura, Jの主張である。
 他者との出会いによって、他者とは異なる自己や他者と同様の自己に気づくという比較による認知の話ではない。Bakhtinの言葉は、自らのまなざしで自己を知ることはできず、他者という自らの外にあるまなざしによってのみ、自己を知ることが可能になることを示す。
 それを受けて、Seikkuraは「自分自身を見たければ、『鏡に映った自分』を見る際に、他者の目を借りるしかない」と述べる。

 ワークショップ内のブレイクアウトセッションで、「なぜ『そこにいる自分』を見るではなく、『鏡に映った自分』を見るなんだろう?」と立ち止まって問いかけてくれたメンバーがいた。その点に着目してみると、『そこにいる自分』ではなく『鏡に映った自分』とSeikkuraが表現することには、重要な意味があると私には思えた。

 もし、「『そこにいる自分』を見る際に、他者の目を借りるしかない」という表現であれば、それは現実の視覚に象徴されるように自ら自己の全容を見ることは不可能であるため、自己像を知るにはまさに他者からの直接的なフィードバックに依存することになる。けれど、「『鏡に映った自分』を見る際に、他者の目を借りるしかない」という表現であれば、自らも鏡で自己を見ることはできるわけで、自らのまなざしのみではなく、他者のまなざしも不可欠だということになる。

 この気づきは私の自己理解に大きな展開をもたらした。気づいた瞬間に、「そうか、自ら鏡で自己を見ることができるような方法を私は身につけたかったんだ」と直感的に思ったからである。その直感は、自らの素朴なまなざしで自己を捉えるだけでなく、自らの外側にも自己を見つめ捉えるまなざしを獲得したいという思いが、私をアサーションやマーシャル・ローゼンバーグのNVC(Nonviolent Communication)を学び、実践する行動に駆り立てたのだという自己理解を連れてきた。
 Seikkuraは「自分自身を見たければ、鏡に映った自分を見る際に、他者の目を借りるしかない」という言語表現によって、リフレクティングの必要性を示唆したと解釈できるが、私にはそれだけに留まらない自己理解の促進というギフトを与えてくれた。

 かつて私はTグループにおいて、批判的・評価的フィードバックの受け取り方がよくわからなかった。そのため、納得できることはありがたく受け取っても、違和感を覚える指摘には言い返すことや自ら一歩踏み込んで挑むこともあり、それを正直で勇気ある発言だと誤解する節もあった。しかしながら、そうしたやりとりはお互いを遠ざけるコミュニケーションにも思えて、疑問と違和感を募らせていた。
 その当時に出会ったのが、アサーションであり、NVCであった。私にとって、アサーションやNVCは自己や他者の状態に気づくための方法であり、他者のフィードバックを自覚的に受け取るための方法でもある。
 
 その時々の人間の姿は、どこを誰が捉え、どのように言語化するかで大きく異なり、多様である。そうした現実のなかで、自分を見失わずに生きるために、私はマーシャル・ローゼンバーグのNVC(Nonviolent Communication)をアサーティブなコミュニケーションの方法として位置づけた「共感でつながるアサーション」に取り組んでいる。感情とニーズに気づく「共感」によって、自分とつながり、他者ともつながる。そういうコミュニケーションの方法を得ることが、私には必要だったのだと、BakhtinとSeikkuraの言葉を契機に実感した。