引っ越し
友人が九州に引っ越しました。
九州のとある大学の講師になることが決まりました。引越し先の決定、引越しの準備やお世話になった人たちへのあいさつ回りなどをしていて、これはどうも会える時間はないだろう、と思っていました。ちょっと無理をしたかもしれません、引越しの前日に時間をとってくれて会うことができました。
彼とはかれこれ20年来のつきあいです。同じ愛知県に住んでいるということもあり、“若い”ころは飲みに行ったりもしました。ここ最近は、出不精になったのか、というより外に飲みに行くことが面倒になったせいか、メールとか電話でのやりとりはあってもしばらく会っていませんでした。引っ越しの前日というのに、会ってみれば他愛のない話、気づけば4時間以上話しこんでいました。
思いついて、彼が育った街に行くことにしました。「あの店がなくなっている!」「ここは昔、本屋さんだったんだよな」という彼のことばは、単なる郷愁ではなく、知り合いもいない、土地勘もない、見ず知らずの新天地で生きていく不安や期待や覚悟が感じられます。
出不精ばかりでなく、めんどくさがり屋の私をふりかえってみると、大学に行くために引っ越したのと、ブラジルに住むために引っ越したのと2回くらいです。ブラジルに住むための引っ越し荷物は、家財道具なし、ザックひとつでしたから、気軽といえば気軽でした。しかし、それに反して気もちは重く、気がつけば飛行機のなかでずっと額に脂汗をかいていたのを思い出します。
引っ越すという行為は、自分の意志で自分を動かす、ということのように思います。だれかにそうさせられてとか、自分ではない理由で動かされるということもあるでしょうが、どこに住むとか、どのように部屋をつくるとか、今の住みかをどうするとか、持っているものをどう処分するとか、自分で決めなければいけないことが、しかも短時間で襲ってきます。ただ、これまで持っていた、溜まっていた捨てきれないものから決別するのは、意志を行動として表わす上での覚悟なのかもしれません。
私は、引っ越しはしないけれど、自分の思っていたこと、考えていること、ものの観方やかかわり方、自分自身のありようを整理し、どこかへ引っ越す時期に来ているように思います。