スタッフブログ

2012年6月2日|

インド

 今週は、ひどい週でした。

 たぶん、生卵のせいだと思います。翌日からお腹を苦しめます。熱は出ないし、下痢でもないが、苦しい。インドを思いだしました。

 インドを旅したのは、もう十年以上前です。インドは衝撃的な国でした、異文化ということだけでなく。ブラジルでの生活もカルチャーショックを受けましたが、旅人としてさまよったインドは短い期間でもカルチャーショックを受けます。

 事前に情報はありましたが、着いたころは特に気に留めることなく生水を飲んでいました。ところがある日突然、便意です。日本のように公衆トイレがここそこにあるわけではありません。なんとか済ましますが、便意が周期的に2日は続く。

トイレはもちろん、紙はありません。トイレには空き缶と水道の蛇口があります。空き缶に水を入れ、左手でお尻を拭きます。右手はカレーを食べる手なので、この時には使いません(左利きの人は、そういえば見たことがなかった)。考えてみれば、手動式ウォッシュレット(商品名!)で、実はこちらのほうが衛生的と聞いたこともあります。

人は学習します。その後はペットボトルの水と一巻のトイレットペーパーを必ず持ち歩くことにします。でも、ペットボトルも時々怪しいものがあるので、買うときに確かめる必要があります。

別の日。その日はあまりに暑く、路上で売っているかき氷を買いました。そして一口食べて、しまった!と思ったが、もう遅い。これでまた2日間の苦しみです。

 

インドは逆三角形の国です。南の突端は、3つの海に接しています。ベンガル海、アラビア海、そしてインド洋です。インドに来たとき、ぜひここは行きたいと思っていました。その突端の浜辺でひとり感慨にふけっていました。

すると一人の若者が海に向かって歩いていきます。すわっ、自殺か?と思いました。3つの大海が交わるところでの自殺?若者はほどなく腰巻をくくり上げ、ひざまずきました。少しの静寂。その後、左手で海水を汲んでお尻を洗い、なにごともなかったかのように立ち上がり、腰巻を下げ、陸へ向かって歩き始め、去っていきました。残ったのは、3つの大海と再びの静寂、そして私。

 

日本に戻り、某日某夜。河川敷をジョギングしているときに便意が。あの光景が誘い、私は川のなかへ。そしてパンツを下しました。空には月夜。3つの大海はありませんが、その空気は感じます。ただ、なにを目当てか、さかなが尻をつつくのには困った。


2012年5月23日|

金環日食?

杉山さんが、金環日食のことをブログに載せているのをみて、わたしも書きたいと思いました。
21日の金環日食は、娘と一緒に素敵な天体ショーを見ることが出来できました。
自宅の周りでも、公園の駐車場や通学途中の学生さんなど、立ち止まっては、みんなが932年ぶりの金環日食を満喫していた。
道端にいるメガネをもっていない幼い子どもに近所のおばちゃんが「メガネを挙げるから見てごらん。」と言っていました。
そして、そのことをきっかけに普段あまり話したことがない人同士が話をしたり、ほほえましい光景が見らました。
何気ない、日常に幸せがあると感じる一日でした。


2012年5月19日|

金環日食

この時期、この話題を出さずにはいられないでしょうという金環日食について書いてみようと思う。
名古屋はめっちゃ久しぶりだそうで、何でもこの前見られたのは平安時代だったらしい。これはもう“この前”とか“久しぶり”なんて言葉で言えるレベルのことではない。今生きているどんな長生きの方でも経験のないBig eventである。調査によると10人中8人が「見るつもりだ」と答えており、私が鑑賞メガネを買いたいと思いショッピングセンターに行った時には全て売り切れであった。名古屋の小・中学校では全生徒に鑑賞メガネを配っていると聞くが、小・中学生のいない家庭の人がそんなに購入しているのだろうか。私は、このBig eventにすでに乗り遅れてしまったようで少し悲しい。中学の教師をしている息子にも持ってないかと聞いたが、彼はさして興味もなさそうに生徒には配ったけど自分は持ってないとの返事だった。
金環日食を体感するには、直接見る以外にもいろいろあるとTVで盛んに言っている。クラッカーなどの小さな穴を通して下に置いて紙に映してみたり、木漏れ日を見るのもお勧めだそうだ。
TVでは何より安全で綺麗に見られるのは、TVの放映を見ることだとも言っている。確かにそうだろうが、やっぱり媒体に頼らず直接体感したい。
月曜の朝は曇りだというので「じゃあ直接見ても曇っているから大丈夫じゃないの」と言っていたら、ちょうどタイムリーにこれまたTVで可愛いお天気お姉さんが「曇りといっても正しく道具を使って見てください」と言っている。“昔は下敷きで見たのになぁ”なんて、これまた悔し紛れに呟いてみる。いっそのこと曇りが強くなって、みんなが見られたか見られていないか分からない程度になれば良いのに。心にこんな意地悪な思いがよぎってしまう。平安時代の人はどうやって見たんだろう。太陽が隠れるなんて不吉なことは恐怖で、誰も見ようとはしなかったんだろうなぁ… 今の私の参考にはならないなぁ…
いくら私が悔しがっても、あと二つ寝たら金環日食である。どうぞ皆さん楽しんでください。私も何とか体感できるように悪あがきしてみます。


2012年5月16日|

あいさつひとつで…

私の勤務する専門学校は、学生の礼節を厳しく指導しなさいという方針である。授業の始業、終業のあいさつは、頭を下げる秒数やおじぎの角度まで決まっている。実際、教壇に立って、そのあいさつの様子をみると、そろい過ぎていてちょっと怖いような気持ちになるが、あいさつがきちんとできることは社会に出ても役に立つので、方針自体は間違ってはいないと思う。少しやりすぎな感じはしながらも、学校の方針にはむかう気は全くない。しかし、実際指導する側の教員がどれだけあいさつができているかというと…本当に学生を指導していいのか?と疑問に感じることがよくある。
あいさつしても全くこちらを見ないであいさつを返す人、中にはあいさつしている私を無視して通り過ぎる人もいる。私の声が小さくて聞こえないのかもしれないと思い、わざとらしいくらいに大きな声を出してみるが、結果は同じだ。「コミュニケーション・プロセス」の話を思い出すと、発信者が発信する記号は、相手に受信され、受信者の内的世界で解読され意味づけされるが、反応が返ってこないとなると、発信者はどうしていいのかわからない。まさか「私のあいさつ、聞こえましたか?」と確認するのはおかしいことだ。無視して通り過ぎる人は、実は役職者だったりするので、私のあいさつなど、とるに足らないものなのかもしれないが、無視される方にしてみればたかがあいさつでも気分がいいものではない。
先日、朝、エレベーター前で、他学科の教員に「おはようございます」とあいさつをした。
しかし、その人は他の職員と話をしていたため、私の声は届いていないようで、あいさつを返してくれなかった。いつものことだと思う反面、少し悲しい気持ちになった。そんな一次感情から、だんだん「教員のくせにあいさつもできないのか!」と二次感情の怒りが起こってきた。私の心の中は穏やかではなかった。しかし、エレベーターを降りるとき、その教員が私に「素敵なお洋服ですね。私好きですよ。」と声をかけてくれた。私の心の中で、“あいさつもできない悪い教員”だったはずの人が、急に“素敵な先生”に変化した。あまりの急展開に「そ、そ、そうですか?ありがとうございます…」とうろたえながら答えることしかできなかった。心の中で思ったことをオープンにしないと、ネガティブな感情はどんどんふくらんでいくけれど、相手からのちょっとした声かけで、ふっとその感情が消えてなくなっていく…やっぱりコミュニケーションって大事!と改めて気づかせてもらった。
あいさつを返してくれないから嫌な人だと心の中で決めつけていた私、あいさつを無視して通り過ぎる人、どっちもどっちだなぁと思う。しかしあいさつひとつでいろいろな感情が起こってくるのだから、やっぱりすがすがしく気持ちのいいあいさつをしたいものである。


2012年5月8日|

異なる人たちと共に生きる

南山大学人間関係研究センターが年に1回「組織開発ラボラトリー」という講座を開催しています。今年は2月に山梨県清里の清泉寮で開催され、ゲシュタルト組織開発を実際にやってみる体験を通じて学びました。具体的には参加者がグループに分かれて、それぞれコンサルタントチームとクライアントチームの両方を体験し、外側から組織を診断し介入する体験と、逆に診断・介入される体験を全員がしました。
それから、3ヶ月近くが経ち、記憶は徐々に薄らいでいます。しかし、そのときの体験が心に残り、そのときにいっしょにかかわった人たちの話をきいて「あのとき何が起こったか」を今も探っている人がいます。1つの出来事に10人がかかわれば、その出来事の見方は十人十色。立場や役割が違い、感じ方や考え方も違いますから、それは当たり前のことです。

そうわかってはいるものの、自分とは全く異なる立場で同じ出来事を体験した人の話をきくと、正反対の見方をしていることもあり驚きます。なぜ驚くかというと、その正反対の見方も現実だからです。人間は多様な存在であり、同じ出来事を共有していても、それをどう思い、どう考えているかをきちんと開示して話し合わなければ、同じ現実を生きることは難しいのだと実感させられます。
フィードバックは「自分の見えたことを伝えるもので、良い・悪いの評価ではない」とよく言いますが、まさにそういうことだと思います。「良い・悪い」の判断は、その人が自分の見方のなかでするものであり、決してそれが正解でもなければ、真実でもありません。もし、自分の見方を声高に主張して異論や反論を認めない人がいたら、少なくともその人の前では本当に自分が思っていることを言わない人が増えるだけでしょう。
みんなでいっしょに組織や仕事を動かすためには、合意形成も必要です。しかし一方で、自分や他のメンバー1人ひとりの様子や感じに関心をもち、きき合える関係になることも大切です。私はそんな異なる存在である人間が、お互いを認め合って共に生きることに関心があります。


2012年5月1日|

プロセス論

今年度も津村先生のプロセス論に出させていただいています。
「人間関係プロセス論」という科目名ですが、実際に学生さんが取り組んでいるのは「ファシリテーター・トレーニング」です。学生さんが交代でファシリテーター役となり、与えられたひとつの課題についてグループの中でファシリテートする、話し合いの時間が終わった後にメンバーからフィードバックをもらう、そういった構造です。
履修する学生は2年生以上で、すでに1年次に「人間関係概論」を履修し、ラボラトリー方式の体験学習を体験している人がほとんどです。ですから、コンテントとプロセスの概念的な理解も、体験もしています。その学生さんたちがファシリテーターを体験する、実践的な、というか日常に活かせる内容になっているのがミソといえます。
学生さんは戸惑いを見せたり、むずかしさを訴えます。それは、ここで扱うファシリテーションがリーダー役や司会役という役割ではないという認識がある、それではファシリテーターは何を観、いつ、だれに、どのようにかかわるか、それを模索し、行動に移す(あるいは移さない)、それでも絶えることなくグループのプロセスは動いていく、その渦中にどっぷり浸からざるを得ない状況にもがいているようにも見えます。
学生さんたちはプロセスを観ようと懸命です。でも、なぜプロセスを観るのか。なぜプロセスを意識したファシリテーションをここで学ぼうとしているのか、この授業でなにを学び、どう日常に活かすことを期待されているのか。
ただ方法や技術としてのファシリテーションを学ぶ場ではない、私はそう確信しています。ここで学ぶファシリテーションのその基底にあるものはなにか、私たちがプロセスを扱い、そこにかかわることにはどういう意味があるのか。そのこともともに考え、ともに行動にし、ともに成長していく、そんな場にしていければ、と思っています。


2012年4月23日|

4月


昨年の4月に職場の後輩が事故で亡くなりました。

早いもので、もう一周忌になります。

 

昨年も何度かこのブログにそのことを書きたいと思いながら、なかなか書けずにいました。

その後輩は、わたしが職場で体験学習を行なったときに本当に目をキラキラさせながら「また、やってください。」と真っ先に言ってくれた子でした。

その後も、私が企画した体験学習の研修に参加してくれて、毎回いろいろな感想を伝えてくれていました。

個人的にも色々相談があり、事故を起こす1日前に一緒に夜勤もやっていました。

すごく忙しい夜勤だった時、ほんの少しの休憩を取りながら、私に相談があるといいました。でも、少しの時間で聞くような話ではなかったので日を改めて聞くことを約束して別れたのです。

でも、その日はきませんでした。

物事には、タイムリーな瞬間がありそれを逃すと永遠にそのときはこないのだと実感しています。

「今、ここ」のプロセス、それは、二度と同じ事は起きない。その時々で、人も変わり、感情も変わり、関係性も変化する。

「今」というこの時を大切にすることが、改めて後輩の一周忌にあたり強く思うことです。


2012年4月20日|

ネットは真実?

今朝のNHKで、企業が採用試験に
Facebookを参考にしていると言っていた。
面接では大人しそうに見えていた女性がFacebookでは、
大勢の友達がいて積極性を感じるとか話していた。
私はテレビに向かって、「何ということだ」とつぶやいた。
Facebookでの友達登録を、その人の交友関係と言うのか…
確かに面接でその人の全てが分かるわけではない。
だからと言って、自分が見たものよりも
ネットの世界で起こっていることを信じるというのか。
何だか悲しい話だなぁと思って過ごしていた。
今日は、私が所属しているファシリテーターの団体である
グループファシリテーターの会Seedsの例会だった。
そこでこの話をしたら、それはもう古いのだと教えられた。
初めは良かったのだそうだが、
就職のためのFacebook教室なるものまで登場し、
Facebookでその人の素顔を見ることはできなくなったそうだ。
まあ、当たり前と言えば当たり前のことで、
落ち着くところに落ち着いていくのだと
何となく安心している私がいた。
やっぱり相手を理解するには、
直に会って、互いに言葉を交わし、
相手の言っていることや反応を
丁寧に見ていくことしか無いのではないだろうか。
ネットは便利なものだし、
今やなくてはならないものと言ってもいい。
ただ、そこにあることが全て真実なのか?
いろいろな意味でネットリテラシー(?)が
きっと必要なのだろうなぁと
ネットの苦手な私は今更ながらに思った次第です。
こんなこと今頃言っているのも情けないかなぁー


2012年4月15日|

何が正しいのか?

今日もまたもらってしまった…私は少し申し訳ない気持ちになる。

とても些細なことだが、気になり始めて1か月ほど。それは、最寄駅で毎日配られる某英会話学校のチラシのことだ。帰宅時になると、若い女性だったり中年の男性だったりが、「お願いしま〜す」と声を張り上げて通行人の右手のあたりにチラシを差し出してくる。ポケットティッシュがついているなら手にする人も多かろうが、チラシだけなのでほとんどの人が差し出した人にもチラシにも見向きもせず通り過ぎている。「お願いしま〜す」という声の必死さに私はついつい手にしてしまったところ、こちらが恐縮してしまうほど「ありがとうございました!」と、とてもうれしそうに言ってくださった。最初はそんな感情のこもった感謝のことばに、なんだかとてもいいことをしているような気になって、進んでもらっていた。しかし、毎日手にするチラシは当然同じものであり、英会話学校に通うつもりもないので、結局はゴミ箱に直行することになる。

チラシを配っている人のことを思えば、私が手に取ることで早く仕事が終えられるとか手当がつくとか利益がもたらされればいいと思う。しかしそれでいいんだろうか?学校の経営方針として、不特定多数の人にチラシを配ってその中の何%かが興味をもって学校に来てくれたらいいのかもしれない。でも多量のゴミが発生する。それでいいんだろうか?

何が正しいのかよくわかんないな〜と思いながら今日もまたチラシを手にし感謝の言葉を聞きながら、ゴミ箱に捨てた。そして罪悪感が残った。結局ははっきりと自分の意思を表明しないことに罪悪感を持つのだろう。

明日こそもらわないぞと思う。


2012年4月8日|

桜の季節

寒くて、思いがけなく荒れた天候続きだった時期がやっと一段落しそうです。今日、名古屋は青空が広がっていて、桜の名所・鶴舞公園には昼間から、驚くほどたくさんの人が集まっていました。鶴舞公園を通る機会の多い私は、今日も単に通り抜けて、その先の道路へ出たかったのですが、人の間をすり抜けるのに四苦八苦で、桜の花に目をやる機会はありませんでした。4月最初の日曜日で晴天となれば、当然なのかもしれません。
帰り道、もう鶴舞公園は通らないと決めて、一般道の歩道を歩いていました。すると、枯れた木が並んでいる中に一本だけ、きれいな花を咲かせた木があります。まだそれほど大きくない若い木だったせいか、桜なのか、それともハクモクレンなのか、遠目に見るとよくわかりませんでしたが、近づいてみると桜で、花芯がピンク色に染まっていて、何だかうれしい気分になりました。
夕方になり、何人かのメンバーとともに昨年から行っている勉強会へ出かけました。今回は結婚したばかりのメンバーを祝うデコレーションケーキとサクラワインを、みんなからのプレゼントとして持っていきました。サクラワインとは、ワインの中に本当に桜の花が入っているワインです。そして、勉強会の会場へ行ってみると、何とそこには大きな桜の切り花が生けてあるではありませんか!さすがにその桜は勉強会のメンバーが生けたわけではなく、その会場を使って別のイベントを行う人が生けたものでしたが、ラッキーな偶然です。


勉強会を終えて机の上を片付けたあと、箱からデコレーションケーキを出すと結婚したばかりのメンバーは、とても喜んでくれました。その人は大学院の後輩でもある男性ですが、ケーキとサクラワインを持って、桜の生け花の前で記念撮影もしました(笑)。桜の花のやさしい香りと色合いがはじまりの季節を彩ってくれて、みんながうれしい気分になったひとときでした。


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