全てが日常遣いのために…日々aloha(喜び)とmahalo(感謝)を胸に…
「アサーションとは、ものごとをうまく進めるための「上手な断り方」や「相手にイエスと言わせる方法」と誤解する人もいる。…いずれの反応も、相手が同意する気になる言い方を知りたい、アサーションは葛藤を避け、ものごとが「うまく」いく方法であってほしいという期待から出ているのだろう。」
「アサーションは自分を正直に、率直に伝えるコミュニケーションなので、互いに思いや状況を伝え合うと、葛藤が起こる可能性がある。」
これらは、今年になって再勉(強)のために再読したアサーションの本(平木典子(2015)『アサーションの心』朝日新聞出版)に書かれていた言葉。
自業自得ではあるのだけど、年末から年始にかけて、久しぶりに相当なる自己嫌悪に襲われた毎日を過ごした。自己嫌悪は妄想力と手を組み、わたしの前後左右からグイグイ攻めてきた。「全くもって、30年近くもプロセスを学んでいるのに、何の役にも立たん!プロセスを認め、正直になってもなんか、苦しみが増えただけだ!」と、自己嫌悪に八つ当たり。
そんな中、これらの文章と目が合った。「あ、いつの間にか、わたしは、葛藤を避け、ものごとがうまくいく日常を求めて、そのために人間関係トレーニングに勤しんでいたんだわ…自分を正直に、率直に伝えたことが、葛藤を生んでしまったんだ…」とも。
で、その先。
「アサーションをしない権利。アサーションしてよいということは、しなくてもよいということを含んでいる。…アサーティヴな自己表現をするときもしないときも、相互尊重を基にして自分の責任で選択することである。」
「この権利のもとでアサーションをしないことは、自分を主張できなかったことを正当化する言い訳とは別物である。…つまりアサーティヴな自己決断によって自己主張を断念することと言えるだろう。」
「この権利(アサーションをしない権利)を使うことは、この決心をしてアサーションをしなかった結果を引き受けるのは自分であることを意味する。後になって主張しなかったことを後悔したり、落ち込んだり、腹を立てたりするとしたら、それはアサーティヴな選択ではない可能性がある。…自己選択の責任は自分で取ることがアサーションである。」
何もできず、動いていないわたしにとって、ぐさぐさくる厳しい言葉だ。そして、何か行動することは、そうとうの勇気と覚悟が要る。がしかし、このままでは、後悔し、落ち込んだ状態は、解消されるどころか、一生背負うことになりそう…いや、確実にそうなることは明白だ…
今年は、12○年ぶりに節分が2月2日だった。行動できるよう、動かないでだんまりを決め込んでいる心の中の鬼に、心から出て行ってもらえるよう…豆をまいた。
そうして、向き合えました。相手と話ができました。もちろん、無かったことにはならないけど、忘れることもないけれど…いやいや、忘れないよう、心に刻んでおこう。
感謝です。おかげさまで、自分の愚かさ、弱さとちゃんと向き合えた一瞬を経験できた感じです。ちょっとちくりとする痛みを伴う小さな喜びでした。
全てが日常遣いのために…日々aloha(喜び)とmahalo(感謝)を胸に…
自分が新年に寄せた言葉。自分の思い描く「日常」。この言葉を寄せたときは、「日常」とはどんな「日常」なのか、イメージにはっきりした輪郭をもっていなかった。葛藤を避け、物事がうまくいくような「日常」を思い描いていたのかもしれない。だけど、そうではないのだ。葛藤の生まれない日常はない。生まれた葛藤と共に生きる「日常」。
ここでハタとつながる。「プロセス」って「体験すること、心の中で起こること」と説明したりもするけれど、体験する中でも厄介なのは「葛藤」…。「プロセスに学び、プロセスを生きる」それは、「葛藤に学び、葛藤を生きる」。文字にしただけで、怒涛の日々に飲み込まれそうになる。今までと違った「プロセス」、泥臭い一面を持った「プロセス」と出会った感じ。厄介だけど、そんなに嫌でもない、その存在を受け入れられる気がする。そうして、少しだと思うけど、人との関わり方が、自分との関わり方が、確実に変わるであろうことに、ちょっとわくわくかな。