言う。話す。語る。
“わたしたちは見ているものを語っているのではなく、語っているものを見ている”
社会構成主義をひとことで表すフレーズとして私にとって一番すんなり入ってくるものです。ここで“語る”ということばが、私には大切なように思っています。
たとえば“語る”を“言う”とか“話す”に置き換えてみます。
“見ているものを言っているのではなく、言っているものを見ている”
“見ているものを話しているのではなく、話しているものを見ている”
“言う”と“話す”と“語る”。それぞれの語尾に“合い”をつけて考えてみます。ここからのことはあくまで私見であり、誤解を恐れずに述べます。
“言い合い”。自分の思いや考えや気持ちなどを他の人がいるいないにかかわらず、いたとしてもただ一方的に放っている、という印象です。
“話し合い”。複数の人がいて、なんらかの目標や目的に向けて、結論や結果を出そうとそれぞれの人が自分の考えや意見を出している、そこには相互のやりとりがある、という印象です。
“語り合い”。自分の考えや思いや気持ちを吐露し、相手もそれに影響を受けたりしながら自分のことを吐露する、それに触発されたりしてまた自分も自分のことを表に出す、という印象です。
Tグループのことを思うと、“言う”と“話す”と“語る”が現れているように思います。それはどのタイミングで現れるのか、決まりや流れはないでしょうが、そのグループの状況や変化によってそれぞれが現れたり、現れなかったりしながらグループは進んでいくような気がします。
私たちが語っているものを見ているとするならば、グループの中の一メンバーとしてそこにいる人が語ることで見る世界、そしてそこにはメンバーそれぞれが語ることで見る世界があります。つまり世界はメンバーの数だけある。
そうやって一人ひとりが自分を語り、そうすると他の人も自分を語り、それぞれが語り合うことが起きます。それは一人ひとりが語ってみている世界が、語り合うことを通して共有する、あるいは共通の世界を見ることになっていくのではないだろうか。そうであるとすると、私たちは語り合うということにより私たちの私たちとしての世界を創造していくことができるのではないか。私が語っているものを見ている世界は、私たちが語っている(語り合っている)ものを見ている世界になる(なりうる)。
手前味噌かもしれませんが、Tグループはそのプロセスを学べる場なのだろうと思います。プロセスの学びはTグループを離れ、日常においても活かされていく、そうしたことが期待されているのではないか、と思っています。