無知、後、知

先日、いつもプールでお会いする私よりも年配のご婦人にいわれました、「どうしたらもっと上手に泳げるようになるか、教えてください」。
誰にも教わったこともない我流の泳ぎをしている私に突然いわれても教えるなんておこがましいとの思いがわいてきて、「あの人に聞いてください」とこれもよくプールで会うきっと若いときには水泳部だっただろうと思う顔なじみの人を指さしました。

 

シーズンオフになると、プロ野球のOBがゲームをやったりするのをテレビで見ることがあります。あの大活躍した選手がバットを大振りしたり、ふわっとしたボールを投げたりするのを見ると、年を取ると体力は落ちるものだな、と思います。たとえば自分では昔と同じようなスピードでジョギングしているつもりなのに、若い女性にあれよあれよと追い抜かされていく様は、自分の体力の衰えを実感し、頭の中では以前と変わらないでいると思っていることとのギャップに直面せざるをえなくなります。
ただ、水泳は少々違うように思っています。もちろん体力の衰えが影響しないわけではないけれど、水泳はいかに体力を消耗せずに泳ぐか、というところがある。競技にでるような速さを競う泳ぎであれば別ですが、泳ぐことを楽しむということであれば、水泳は年をとってもなお成長できるスポーツのように思います。いかに水の抵抗を減らすか、それは水中で自分の身体を地面と平行にさせられるかということで、どの体勢のタイミングのときに手でかき、バタ足をするか、そして以下に水の中でリラックスしている自分でいられるか、その試行錯誤の繰り返しをしながら上達していく、だから年を重ねてなおうまくなっていっていると実感できるスポーツと思っています。

 

今、グループプロセス・コンサルティング講座に参加しています。グループプロセスだからグループで起こっていることを扱おうとします。で、グループプロセスってなんだろう、と思う。なぜグループプロセスを扱うのか。それを取り上げることでなにが期待できるのか。おとといから始まって今さらながらそんな問いかけが自分に向けて起こります。それをコンサルタント役としてグループにかかわるので、やりながらのまさにトライアンドエラーです。
3日目の朝に思うこと、きっとそれは無知であることなんじゃないか。

 

そこそこの年になり、今あれをやってもとか、今さらこれを始めてもとか、自分の年を兼ね合いに自分を値踏みしている自分がいます。
88歳の最高齢で博士号ととった人の記事が載っていました。自分に対して無知になる。ジョハリの窓でいえば、unknownの世界はミステリアスであり、unknownであるからこその自分への期待も高まる。それはたぶん、年をとったからゆえの削ぎ落されて見えてくる、感じ始められる世界のように思います。