胃カメラ-こころを写す

 まず液体を飲むところから始まります。液体を飲むと喉のあたりが締められたようなちょっとした痛みが出ました。ベッドに横向きになり、両手は胸を抱えるように組むようにいわれ、しばし時間を待ちます。
 先生がやってきて、「3~4分で終わります」といい、「リラックスしてくださいね」と私の右肩をなでました。
 黒いものが口から入れられ、喉を通るときには抵抗感が増しました。「お上手ですよ」となにかお稽古事で褒められている生徒に対して話す先生に反応する声は出せません。
 それが食道を降りていくのがわかります。やがて胃に到達。胃をあちこち動いている。「これから一番大変なところですよ」とそれは十二指腸に触手を伸ばす。
 「よだれがたくさん出ましたね」と看護師さんにいわれたけれど、麻酔のせいなのか全然気がつかなかった。
 検査服を脱ぎながら写し出された自分の胃と思われる写真を見ると、なんだかいとおしい感じがします、「がんばっているんだな」。
 「廊下で待っていてください」といわれると、急に興奮も落ち着きを取り戻します。審判が下る準備が心を静かにさせます。

 

 手に傷を負えば、自分の血が流れるのが見えます。額に手を当てて熱ければ、熱があることがわかる。食道も、胃も、十二指腸も自分の体の一部なのに、自分では見ることができないし、おそらく痛みや他の部位に現れる変化でその存在を感じることしかできない。
 私たちのこの世の中にも同じことが当てはめられるように思います。目の前で起こっているこれまでとは違うものを自分が感じれば、それを違和感や危機感として受け止められれば、なんらかの対症もするでしょう。でも、見えなかったり、気がつかないまま変わることがあります、変わっていくこともある。長い時間がかかって痛みとして歪んできたり、突如として押しかかってきてどうにも耐え切れなくなるといったことも起こるかもしれません。そんな中でも表には出てこないかもしれないけれど、だれかに褒められることもないかもしれないけれど、自分の置かれている環境の中で自分が担っていることをがんばっている人がいる、世の中を支えてくれている人がある。こうして世の中は動いている。その世の中から私が恩恵を受けている。

 

 残された自分のこれからの人生も同じようなところがあるような気がします。自分ではすべてコントロールできないことが起こる。それを受け容れようとするか、抗するか、いずれを選択したとしても自分の生は続く、ただ淡々と続く。それが死を迎えるまで続く。どの道を歩んでも、急いだとしても、ちょっと立ち止まることはあっても、そこにはそれなりにがんばっている自分はいるんだ、と思う。そこは認めてやりたい、許してやりたい。

 

 「またおいしいものが食えるぞ」、「まだ酒が飲めるぞ」とほっとしました。