正直者は馬鹿を見る

 正直者は、正直であるがゆえにそうあり続けようとするため、結果的に要領がよかったり、ずる賢かったりする者が得をする。そんなふうに思っていました。でも、おそらく正直者は馬鹿を見ない、と思います。
 正直者は馬鹿を見る。正直ではない人からすれば、正直であろうとすると損をするなら、正直でないほうがいいと思えます。しかし、正直な人は、正直であることがその人のその人たらしめていることであるならば、その人が体験し、いきついた結果がどんなものであれ、正直を貫いたことに対する疑念は微塵ももたないだろうと思うのです。正直は馬鹿を見ると唱えるのは、正直ではない人だから言ってるのであって、正直な人はそんなことは気にはしない。

 正直者が馬鹿を見る

 “は”でなく、“が”が本来のことばです。“は”が“が”に変わるだけで、意味合いが違ってきます。
 視点が正直ではない人から、世の中のあり様や動きにまで広がります。正直者が見る馬鹿は、どんな馬鹿なのかはわかりません。損得でいうところの損なのかもしれません。人として、人の道を歩む上で、正直に生きている、正直に生きようとしているのに、世の中が一部の人たちで動かされたり、一部の人たちのためだけに形づくられるとしたら、それはなんともやるせないことです。人として、人の倫が歩める世の中。正直な世の中でありたい、あってほしい。

 私たちがそのためにできることはなにか、することはなにか。亀の歩みではあっても、歩みを止めることなく倫を歩んでいきたい、そう思っています。