味わう
奥三河だったか、天竜川を超えた静岡県側だったか忘れました。廃校になった小学校をレストランにしているところがあるそうです。とくに特色のあるメニューがあるわけではありません。ですが、特色のあるレストランです。
夜。人がやってきます。皿が並べられます。客が食べます。普通に時間が過ぎます。普通でないのは、そこに明りがひとつもないことです。明かりがひとつもないため、客は真っ暗闇の中でフォークとナイフを動かします。困惑します。次第に慣れるのか、食べることに意識が向きます。やがて食に惹かれます。
「味わうとは、喜びに対する意識およびその意識を持続させる意図的な試みのこと」。今、私が読んでいる本に書いてあります、「習慣的に味わう人々は味わわない人々に比べて実際に幸せであり、全般的に人生に満足しており、楽観的であり、抑うつに陥ることが少ない」。とくに食事を味わうことについて書かれているわけではありません。「何かよい出来事(嬉しい出来事)に出会ったときには、立ち止まってそのことに注意してみる」。
暗闇の中で食事を摂ることがよい出来事かどうかはともかく、暗闇の中で食事をすることが、その時は立ち止まって食することに注意している、ということは間違いないと思います。すくなくとも視覚は遮断され、そのせいなのか残された聴覚、嗅覚、触覚、味覚が、それを補うかのように機能し始める。食を味わおうとする。
おそらくひとつの機能をあえて遮断までしなくても、私たちは私たちの持っている機能を十分に働かせ(あるいは、眠っている機能を奮い起させ)、そのものを、その体験を味わうことはできるのではないか、と思います。暗闇の中で食事をすることがよい出来事であると期待するならば、それを味わう体験をすることによって幸せと感じられる。であれば、暗闇の中でなくとも私たちは、その意識をもって意図的に試みることでそれを味わうこともできるのではないか、と思います。
ニューヨークには、真っ暗闇レストランがはやっているそうです。でも、その意図は知りません。