ねんざ

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 ねんざをしました。
 きれいな女性に見とれていたわけではありません。地下鉄の改札口に向かう階段を下りていまし
た。壁に貼ってある広告を見ながら、踊り場にはまだ一段、と思っていた右足が実際には踊り場に
つき、次が踊り場と準備していた左足は、右足と同じ高さの踊り場につきました。もう一段さがる
と思っていた左足はその思いを裏切られ、思わずカクンと左側に曲がりました。踊り場でのけぞり
ました。仰向けに転がるほどでしたが、痛みはそれほどでもなかったので、その日のJIELの
ミーティングに向かいました。痛みというものは後から来るものなんですね。
 その日の夜は、風呂にも入れず、たまたま家にあった湿布を貼ってふとんにもぐりこみました
が、痛みが頭から去りません。いつもであれば、今日はこんな一日だったとか、明日はこんなこと
をしようとか、新しい実習を考えたりもするのですが、どうにも痛みから逃れられないまま時間は
過ぎていきます。寝たのか寝なかったのかもわからないまま朝がやってきました。
 あれからひと月。今でも正座ができず、走ることもちょっとこわいので控えていますが、なんと
か泳ぐことには支障がないようになりました。
 脳の情報処理能力は毎秒110ビット、と聞いたことがあります。ふりかえってあの夜を思い返す
と、110ビット/秒のすべてがその痛みに使われ、数分も、数時間もそれにあてがわれました。110
ビットをどのように使うかということはおそらく自分(の意志)で決められることなのだろうと思
います。しかし、苦痛にとらわれ、そこから逃れられない自分がいます。心の余裕、という言い回
しが妥当かどうかわかりませんが、そんなものは切羽詰まった状態ではとても小さくなってしま
い、見えるものも見えなくなります。ただただ目の前のことに意識が終始します。
 今思えば、あれが階段だったら転げ落ちていたから踊り場でよかったとか、心配してくれる人が
自分にはいる、ということに思いを馳せることができます。でも、見えない時にはなにも見えない
し、見ることもできない。世界は狭まり、その世界も意識することができない。一心に渦中にあ
る。そんな時もあるんだ、といういことに思いを寄せることもできた気がします。
“青春時代が夢なんて あとからほのぼの思うもの 青春時代の真ん中は 道に迷っているばか
り”(「青春時代」森田公一とトップギャラン)