ブタのブッタの本
先日、図書館にいました。よく利用する図書館です。
原生動物は原生動物ですが、比べることができたのだそうです。比べることができるというのは、目の前の(目があるかどうかわかりませんが)生き物がそれが仲間であるかエサであるかを認識することができる、ということです。仲間であればそれを捕食することはせず、エサであればそれを摂りこむ。仲間を食べてしまうと生命が存続することが危ぶまれる、エサは食さなければ生存が危ぶまれる。そのためにも相手が仲間であるかエサであるかの区別ができなければ原生動物の種は途絶えていた、と。
原生動物が緒であるとすると、人間も同じように比べるということが日常の茶飯事として引き継いでいるように思います。それは多様さを加え、人を喜ばせもするけれど、苦しませもする。だれかと比べて落ち込んだり、だれかと比較することで安心や安堵を感じたりもする。自分自身においても過去の自分と比べて「あの時はよかった。あの時に戻れれば」とか「あの時のことがあったからこそ今のじぶんがある」などといったりもする。
人と比べるな、とかよく耳にするけれど、比べることが人の本質に備わっていることだとすると、比べないわけにはいかないかもしれません。ひょっとして比べるということをしないことになったら、それが悟りというものなのではないのかな、とも思ったりします。
悟ったことがないので悟りがどういう状態かわかりません。悟りの状態が比べるということをしない状態であるとすると、それは数万年積み重ねてきた生物としての本来のありようを超越していることになるのではないか、と思います。その状態になれば人と比較することはなく、自分自身とも比較することはない。ゆえに苦しむこともない。ただ、その時には喜ぶこともない。
人と比べることが生き物としての性であるとするならば、それはそれとして受け容れることが肝要のような気がします。その性から解き放たれるとしてもおそらくそこには生き物としての妙味がなくなってしまうのでは、と思うのです。
では、どうやって苦しみから脱け出し、喜びを味わう生きざまをもつことができるか。
それを考える苦しみが今やってきています。