Second Best Way to be Together~直接は会えなくても共有したいもの~

今回のWeb講座は、2020年3月20日~22日まで清里での宿泊講座が新型コロナウィルスの問題で開催することができずに急遽開催されたものです。
3月21日10:00~13:30までにDavid Epston ,Dean Berkeleyのレクチャー(同時通訳付き)および参加者との共有からの学びのレポートです。

Davidの話しの中で「言語は文化を持っている」、「言語が私たちの思考(考え)をとらえている」ということと「言語の限界」が「私の限界」であると言われたことがすぐに理解できず、その後主催者の方々(すみえさんやしょうこさん)の説明で理解できた。
たとえば、日本語の「あの子は甘えている」と「甘え」は英語にはない言葉である。
また同じ日本語でも不良が「くそやろう!」ということをその言葉を使わずに、同じ意味合いで他の言葉に伝えることはなかなかできない。
言葉によって色付けされていること、それが、Davidの言う「言葉には文化を持っている」ということになる。

Deanのことで言えば、その国で使用されている言語には、文化や習慣が源流として流れている。言葉にはどのような心が宿っているのかについて考える必要がある。
自分の言葉の源流を探すことが重要である。

Deanからの問いかけ:「日本人の心」「日本の心」を誰かに置き換えることができるか、
もしくは価値観などあるのであろうかと。

私たちは同じ日本人であっても、その文化や習慣や価値観は違う、一概に日本、日本人という概念でひとくくりにできないのである。
 私たち日本人がある文化人の言葉で、すべて同じように共感するであろうか。例えばコロンビアは、侵略された歴史から「百年の孤独」の著者であるガブリエル・ガルシア=マルケスであればコロンビア人は誰でもその人の言葉をコロンビアの心で感じるという。
 しかし、今の日本でガブリエルのような存在の人間がいるであろうか。
私たちが英語を翻訳するときにこの人であればどのような言葉を使うか、と基準になる人が存在するのであろうか。
 私は、たぶんいないであろうと考える。それぞれの人にはあるかと思う、私が思い描くのは、たとえは、川端康成、村上春樹、やなせたかし、日本象徴としての天皇など、しかし、日本人全員に当てはまることはないであろうと思われる。
では、自分の言葉の源流を探すということはどのようにすればいいのかと次の疑問がわく、それには、冒険の精神、創造が大事であるとその探求を楽しむことが重要で言われた。

その他、問題の「外在化」についてナラティヴ・セラピーでは、目に見えない力関係が自分のあり方に影響しているという。人間の言語は、心や魂が関係している。既成概念や常識などいろいろなことに縛られている可能性がある。
生きている問題に対して、私たちは感情など影響を及ぼしていることを意識することが大切であるという。「生きている問題」を支配することにどう関わるか、結局のところ自分で選択し、自分で決めていく。取捨選択と自己決定であるという。また、この「目に見えない上下関係」という「力関係」を意識することを気づいて解体することであるという。力の支配から共に協働する関係へと変化させることが重要である。
力関係を崩していくことが格差を埋めていくことになるという。また、セラピストは単なるコミュニケーションスキルだけではいけないという。では、どのようにしたらこの力関係を気づき崩していくことができるかが次への疑問となる。
 私のような対人援助職やコンサルテーションに携わる者として、「批判的に分析する」「支援的になる」「脱構築」というキーワードをもらう。
「批判的に分析する」とは、自分の既成概念に気づく、常識や前提というものを一旦疑う。自分を支配しているディスコースを疑うなど、それは当たり前のことを鵜呑みにしないことであり、日常の些細な「うっ」、「えっ」とか感じたことを大切にしておくことではないか。
 マイケル・ホワイトがいう「問題をなくそう」という排除ではなく、物事に余白を創ることであるという。
 これからの私たちが考える事や行動するは、英語圏の文化から日本語圏の文化へ移行することではなく。「とらわれ」からの開放や今あるものを対面しながら新しいものを探求していくことではないかと言われる。それぞれがいろいろな切り口で探求することで楽しみながら冒険していくチャレンジ精神なのではないかと思う。
そして、言葉を発するときにどのような人がどのように受け止めるのかを想像すること、それを教えてもらえる関係性を構築していくこと、それをキャッチすることではないかと思う。
 私たちは何かを取り入れようとするときに、例えば明治時代に西洋文明を取り入れようとしたときに、西洋文化は良いものや優れたものとして同化させてしまうが、同化する姿勢に気をつけないといけない。
単にナラティヴ・セラピーを英語の文脈から日本語の文脈に置き換えることではなく、私たちが暮らしている国や地域、文化に根差して物事を意識、感じ、自分の感受性の感度を衰えさせないことであるように感じた。
                                                          鈴木 由子
#ナラティヴ・セラピー #「外在化」 #言葉の源流 #日本語の源流を探索