最初の思いは…
先日、JIELの研究員の杉山さんが私の職場である専門学校で1日アサーショントレーニングを実施してくださいました。学生にとっては最後の授業でしたし、1年間育てた学生を信頼できる仲間が来て授業をしてくれるということで、とても楽しみにしていました。事前に学生にも告知したり、杉山さんとも打ち合わせをして準備をしました。しかし当日2名の学生が来ませんでした。しかも1人は無断欠席です。また1人の学生は来たのに1コマ目が終了後、帰ると言い出しました。理由を聞くと「アパートのカギをとりに行かなくてはいけない」と言うのです。4月からの新生活に向けていろいろ準備があることは私も理解できますが、何もこの日を選ばなくてもいいのではないか?と思いましたが、今さら言っても仕方がありません。何より講師の杉山さんに申し訳なく、恥ずかしい思いが湧いてきました。休憩中に教務室に戻り、同じ学科の教員に状況を報告したところ「どうせあいつらはそんなもんですよ。」と言われました。かちんと来たので「担任に、出られるなら出ろと言われていると学生は言ってましたよ。先生がその程度なら当然学生は来ませんよね。」とかなり語気を荒げて言ってしまいました。その後もしばらくやりとりは続いたのですが、休憩時間が終わりそうだったので、私は勝手に「そういう状況ですから」とやり取りを終わらせ、教室に戻りました。教室では学生が「アサーションは難しい」「頭ではわかるけど、私は普段どうなのかな?」と言いながらも、一生懸命取り組んでいました。その姿を見て、ふと我に返りました。参加しないたった3人の学生のことばかりが頭の中を占めていましたが、大部分の学生はしっかり取り組んでいるのです。参加した学生が自分の学びを獲得できるために動くべきだと考え直しました。さらに、私は怒りの感情をむき出しにして同僚に関わりました。アサーションで言えばアグレッシブに表現しましたが、相手はノンアサーティブになるか、同様にアグレッシブになるかのどちらかなのです。いずれにしても関わりの後味は悪いものでした。私は怒りの表現をしましたが、最初の思いは怒りではありませんでした。私にとっては大切な学生で、これから社会に出るために学んでおくといいと思って企画した、いわばはなむけの授業です。この思いが学生にも他の教員にも伝わっていなかったことが「残念」だったのでした。その最初の思いに尾ひれがついて怒りに変わっていきました。でも「残念です」という最初の思いを伝えていれば、あんなにアグレッシブなやりとりをしなくて済んだのに…それがまた「残念」でした。アサーティブになるのはやっぱり難しいなと思いました。でも気づけて良かったです。学生以上に私がいちばん学んだのではないかと思います。
アサーションは率直に自分の思いを表現すればいいということではありません。時には率直に表現しないことを選択することがあってもいいし、こういう言い方をすればアサーティブになれるという特効薬もないと思います。相手との関わりの中で、自分の表現が相手にどんな影響を与えているか、また相手から与えられているかをしっかりみることが大切だと思います。前回の水野さんの話をかぶってしまいますが、やはりアサーションは単なる表現の技術ではなく相手との関わりであるということを痛感した出来事でした。