ねらいとわたし

先週末の土日2日間、グループトレーニング研究会のトレーナートレーニングに参加しました。
Tセッションが始まる前に全体会があって、今日の自分のねらいを立てました。参加者全員が自分のねらいを紙に書いてセッションルームに貼りました。私のねらいは「グループの中で起こっていることをよくみる。率直に動く」です。ねらいを書いて貼りだすこと自体、私にとって珍しいことではありません。しかし、今回はどうもいつもと感じが違いました。グループに起こっているプロセスをよく見ていると、自分の気持ちが置き去りにされてしまったようで、身動きがとれません。何か行動することにためらい出て、まるでねらいが私の行動を制限するようでした。
2日目はこの反省を生かし、別のねらいを立てました。そして同様に全員が紙に書いて貼りました。「やりたいと思ったことはやってみる」というシンプルなねらいです。でも「今、本当にやりたいことなのか?」と自分に問うと、何も動けなくなってしまいます。ねらいの紙は他のメンバーにも見えるので「やりたいことやってるの?」と思われないかということも気になりました。
メンバーの中の一人の方が「ねらいは私を後押ししてくれるもの」「ねらいは困った時によりどころになるもの」と話していました。ねらいと仲が良いんだなと思いました。私にとってねらいは「しなくてはいけないこと」であり、「ちゃんとやってるのか?」とチェックしにくる嫌なやつ…。仲良しどころか、ちょっとうっとうしく感じていることがよく認識できました。普段、授業の最初などに、学生にねらいを立ててもらう時には必ず、できそうにないねらいよりはがんばればできそうなものを、ときどき見返すと楽しくなったり元気になったりできそうなものを、と言います。しかし、私自身は学生に言っていることができていませんでした。人に言うのは簡単ですが、自分のこととなると、そうはいかないものです。
ねらいと仲良くなれないだろうか…。少なくとも一緒にいて楽なものにならないだろうか…と思います。そのためには、立てるねらいを変えればいいのか、ねらいのとらえ方を変えればいいのか、起きた結果にあまり固執しないことなのか…今はよくわかりません。しばらくは機会あるたびに、ねらいと私の関わりを意識してみようと思います。