あいさつひとつで…

私の勤務する専門学校は、学生の礼節を厳しく指導しなさいという方針である。授業の始業、終業のあいさつは、頭を下げる秒数やおじぎの角度まで決まっている。実際、教壇に立って、そのあいさつの様子をみると、そろい過ぎていてちょっと怖いような気持ちになるが、あいさつがきちんとできることは社会に出ても役に立つので、方針自体は間違ってはいないと思う。少しやりすぎな感じはしながらも、学校の方針にはむかう気は全くない。しかし、実際指導する側の教員がどれだけあいさつができているかというと…本当に学生を指導していいのか?と疑問に感じることがよくある。
あいさつしても全くこちらを見ないであいさつを返す人、中にはあいさつしている私を無視して通り過ぎる人もいる。私の声が小さくて聞こえないのかもしれないと思い、わざとらしいくらいに大きな声を出してみるが、結果は同じだ。「コミュニケーション・プロセス」の話を思い出すと、発信者が発信する記号は、相手に受信され、受信者の内的世界で解読され意味づけされるが、反応が返ってこないとなると、発信者はどうしていいのかわからない。まさか「私のあいさつ、聞こえましたか?」と確認するのはおかしいことだ。無視して通り過ぎる人は、実は役職者だったりするので、私のあいさつなど、とるに足らないものなのかもしれないが、無視される方にしてみればたかがあいさつでも気分がいいものではない。
先日、朝、エレベーター前で、他学科の教員に「おはようございます」とあいさつをした。
しかし、その人は他の職員と話をしていたため、私の声は届いていないようで、あいさつを返してくれなかった。いつものことだと思う反面、少し悲しい気持ちになった。そんな一次感情から、だんだん「教員のくせにあいさつもできないのか!」と二次感情の怒りが起こってきた。私の心の中は穏やかではなかった。しかし、エレベーターを降りるとき、その教員が私に「素敵なお洋服ですね。私好きですよ。」と声をかけてくれた。私の心の中で、“あいさつもできない悪い教員”だったはずの人が、急に“素敵な先生”に変化した。あまりの急展開に「そ、そ、そうですか?ありがとうございます…」とうろたえながら答えることしかできなかった。心の中で思ったことをオープンにしないと、ネガティブな感情はどんどんふくらんでいくけれど、相手からのちょっとした声かけで、ふっとその感情が消えてなくなっていく…やっぱりコミュニケーションって大事!と改めて気づかせてもらった。
あいさつを返してくれないから嫌な人だと心の中で決めつけていた私、あいさつを無視して通り過ぎる人、どっちもどっちだなぁと思う。しかしあいさつひとつでいろいろな感情が起こってくるのだから、やっぱりすがすがしく気持ちのいいあいさつをしたいものである。