マインドフルネス
「日本人は何も言わないし、何を考えているのか、意見があるのかないのかわからない。それで日本人の成績はよくないのだ」、と聞いたことがあります。ひと昔以上も前のことなので、今はどうなっているか定かではありませんが、自分がわからないことなら(人がどう思おうと)なんでも質問する(らしい)欧米人との違いが日本人の留学生にはあるようです。それを文化的な違いといっていいのかどうかわかりませんが、確かに自分の学生時代のことを思っても、今の学生を見てみても、自分から挙手して質問をしたり、もう一度説明を求められるということはほとんどありません。でも、グローバリゼーションという名が徐々に浸透していくなかで、こうした環境も徐々に変わっていくのだろう、と思っていました。
国内外で人の移動が増え、流入流出定住が進むと、そこには新たなスタンダードが生まれます。おそらくそれはデファクトなグローバル・スタンダードとして確立していき、大波に飲み込まれていく日本人を想像していました。ところが、一概にそうとは言えないかもしれない。
いわゆる西洋は西洋でそれなりの行き詰まりといったらいいのか、立ち止まりというのか、これまでのやり方や進め方、もっというと生き方に対して問いかける、自問するという流れがあるような気がします。
マインドフルネスということばが広まっています。何冊か読んでみました。当初それは瞑想のやり方とかの方法を述べているものなのかな、と思っていました。実際にはそうではなく、ただ単に呼吸に集中すればよいということではなく、そこには西洋で生きてきた歴史的文化的な背景に東洋の思想や宗教が混ぜ合わさり、むしろこれまでの生き方を問われ、人として、この地球という場で包摂しながらいかに豊かに、いかに幸せに生を創造していくか、そのためのこころのありようを見つめてみよう、という思いを感じます。
今、保守主義であったり、ナショナリズムであったりと、どちらかといえば内向きの方向に進んでいるように思いますが、それはどうも全体にあってより混じり合いが深まる(深まらざるをえない)なかであるからこその突出した傾向なのかな、と思います。
もう30年近くも前、永平寺にいって座禅をしたのを思い出します。高々3日の参禅でどうのこうのというのはおこがましいですが、宇宙の中に自分がいて、自分のなかに宇宙はある、そんな気がしています。