雑記-蒸し暑い日をさらに蒸し熱く-
今年のハンゲショウは、あまり白粉を塗ることもなく盛夏に入ってしまいました。半夏生を迎えた頃からほぼ毎日トマトを食べています。4月に植えたミニトマトがそれはもうたわわに実り、赤く熟した実を食べるのが早いか、虫に食べられるのが早いか、熟しすぎて実が落ちてしまうのが早いかの競争です。
我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか
1897年から1898年にかけてゴーギャンは滞在したタヒチでこの絵を描きました。ゴーギャンの深遠な思いほどではないのですが、90年代頃から私の脳の奥底に住みついているのは、幸せとはなにか、人はどうしたら幸せになるのか。
自分の真摯さが足らないのはいいわけですが、当時はこの分野でとくに心理学的な知見に接するを機会は少なかったように思います(今から見ると実際には多くあったのですが)。幸せが表舞台に出てきて大きく脚光を浴び始めたのは21世紀に入ってからといってもいいのではないでしょうか。1998年にM.セリグマン博士たちが創始した「ポジティブ心理学」は、それまでは主に人の病理的な面に焦点を当てていた心理学からポジティブな側面に目を向けることを唱えました。2004年のTedでセリグマン博士は3つの幸せについて語っています(https://www.ted.com/talks/martin_seligman_on_the_state_of_psychology?language=ja)。
セリグマン博士たちは、日本ポジティブ心理学会によれば2011年頃から軌道修正をし、ウェルビーイング理論へと展開してきました。ウェルビーイングとは、Well-being、よく在ることを表します。セリグマン博士の最新刊、「ポジティブ心理学の挑戦-“幸福”から“持続的幸福”へ-(Flourish, A Visonary New Understanding of Happiness and Well-being)」(2014)では、その軌道修正が述べられています。
最近、本屋さんではアドラーの本が平積みになっています。私も時流に乗って(?)アドラーに関心を寄せている一人です。彼における「幸せ」とは、誰かの役に立っているという主観的な感覚、貢献感と述べ、幸せを実感するためには、仕事、交友、愛の3つからなる「人生のタスク」に向かうことである、とします。競争原理ではなく、協力原理のなかにあって、共同体感覚のもとにこの3つのタスクにどう向き合っていくか。
ポジティブ心理学とアドラーのいう幸福の異同をここで述べるほどの知見をもちあわせていないのはに申し訳ないことですが、ポジティブ心理学では頻繁に取り上げられているポジティブ感情というものはアドラーのなかではあまり取り上げられていないような気がします。セリグマン博士は1991年に「オプティミストはなぜ成功するか(Learned Optimism)」を世に出し、慶應義塾大学の前野隆司教授も幸せを因子分析した4因子のなかに楽観性を因子のひとつとしています。Learned Optimismという原題からいえば、オプティミズムは学習性をもっている。そうであるとすれば、オプティミズムをどのように学習していくか。そのプロセスのなかでアドラーのタスクを採り入れるとするならば、どう人生の課題に向き合っていくか、取り組んでいくか。
どうもこんなことをつらつら書き留めていると、アドラーがいっているように自分はメサイア・コンプレックスなのではないか、と思えてきます。ハンゲショウが白さを表さなくても、ミニトマトが虫かなにかについばまれても、すべて自然の摂理のままに世は動いていくのに。