一市民として
「民主主義の最後のとりでは、目覚めた市民の組織された力だ」
韓国の盧武鉉(ノ・ムヒョン)第16代前・大統領のこのことばは、「家の近くにとても小さな碑をひとつだけ残してほしい」という遺言に従って小さく残されているそうです。
鳩山さんが総理大臣を辞めました。普天間基地移設の問題があったり、彼自身のリーダーシップのなさ(といっていいかどうかわかりませんが)や、脱税疑惑など、むべなるかなの感があります。ただ、普天間のことをいえば、もともと自公政権のときにあった話で、今は野党となっている勢力がここぞとばかり彼を戦犯のごとく非難めいたことをいうのはどうかとも思います。
市民は愚かではないです。民主党の支持率が下がってきても、必ずしも自民党のそれが急激に上がることにつながってはいません。
6月2日付中日新聞文化欄で大阪大学学長の鷲田清一さんが「「顧客」のふるまい、「市民」のふるまい」と題してこう述べています。
「ひとびとにいま求められているのは、そうした政治というサーヴィスの消費者、つまりは「顧客」としてのふるまいではなく、社会を担う、受け身ではない「市民」としてのふるまいではないのか」
主権は私たちひとりひとりの市民にあるとしても、議会制民主主義の名の下に代議員に“委譲”し、一部の人らがその権益を得ることに終始した時代、それが混迷する日本の政治の構造を築き上げてしまったのではないか。その挙句に残された負の遺産。
Ask not what your country can do for you,
ask what you can do for your country.
(国があなたのために何ができるかではなく、あなたが国のために何ができるか、問いかけてください)
アメリカ合衆国第35代大統領、ジョン・F・ケネディは語っています。さらにこうも述べています。
A man may die, nations may rise and fall, but an idea lives on.
(人は死ぬかもしれないし、国は興亡するかもしれないが、理念は生き続ける)
今、だからこそわたしたちはどう生きていこうか、どういう社会を創っていこうか、そう問われる時が来たのだな、それをぶつけ合う時なのだな、そう思います。