「Tグループ」と「経験と教育」(デューイ)第7章「教材の進歩主義的組織化」

 私なりですが、ラボラトリー方式の体験学習とりわけ「Tグループ」と「経験と教育(ジョン・デューイ著/市村尚久訳、講談社学術文庫、2004)の第1章「伝統的教育対進歩主義教育」、第2章「経験についての理論の必要」、第3章「経験の基準」、第4章「社会的統制」、第5章「自由の本性」、第6章「目的の意味」と読み進めてきて、ブログに書きました。この書籍,Tグループのファシリテーター(トレーナー)だけでなく、さまざまな教育に関わる方、組織開発に関わるコンサルタントなどの方に、広く学びの刺激を与えてくれそうです。
 ぜひ、本著をお読みいただくことをおすすめします。
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 今回は、第7章「教材の進歩主義的組織化」をご紹介しながら、体験を大切にする教育にかかわる方のお役に立てば、幸いです。体験からの学びとその教材との関係とはなかなか難しいテーマです。ラボラトリー方式の体験学習の中にあっては、体験を概念化したり、一般化するためのツールとして教材(テキスト)があると考えられます。一方、体験を促すツール(刺激)としての教材を考えると、これはなかなか複雑です。どのような実習素材を考えるか?または、体験の中でどのような刺激を与えることができる教材であるか?このことは、体験から学ぶことを支援している身としては考えていかなければならないことです。往々にして、体験学習を尊重する人たちの間には、ファシリテーターが提供する教材(実習や理論/モデル)の提供を後回しにしてしまう傾向がある人たちがいます。体験と同じぐらい教材については考えていく必要がありそうです。以下のデューイのテキストの中から限りあるメッセージですが、拾い出してみたいと思います。

 デューイは、「教育が経験として考えられるようになると、・・教科と呼ばれるものは、算数、歴史、地理、あるいは自然科学の一つであれ、どのようなものであってもその発端は、日常生活経験の範囲内にある材料から引き出されなければならない。」と述べ、教材自身は学習者の日常経験の範囲から引き出される必要性があると考えています。また、デューイは、「経験の内部に学習のための教材を見つけ出すことは、新しい学習の最初の段階にすぎない。次の段階は、経験されたものをより豊かに一段と組織化された形態へと進展させることである。」と述べ、あくまでも未来に向けて、学習者がより発展的に現在の体験と教材とをつなぎ合わせながらより高度な組織化が行われるように働きかけることが教育者の仕事して大切であることを述べています。

 上記のことを示唆するメッセージとして、「経験の本来的な教材は、新しい能力を喚起する新しい事物や出来事と結びつくようになると同時に、これら新しい能力の行使により、経験の内容は洗練され拡大されるのである。そこに、生活の空間と生活の期間が拡大されるのである。」とデューイは述べています。そして、教育的条件として2つのことを記述しています。「教育的条件その1:教授するということは、学習者がすでに具備している経験からはじまるといこと、およびその経験が推移していく過程に発展させられてきた更なる経験と能力が、すべての将来の学習の出発点を提供するということである。」「教育条件その2:経験の成長をとおして、教科は拡大され組織立てられていくことが秩序整然となされていくということには、それほど確信のもてるものではない。」であり、「いま問題にしている二つの教育条件としての要素は、年長の子どもたちに当てはめようとすると、問題をますますむずかしくしてはそれを教育者に投げかけている。」と述べ、幼少時の子どもの発達に関わる教育者とさらに成長を促し、年齢も高くなっていく子どもたちに対する働きかけの難しさを指摘している。このことからすると、成人が体験から学ぶ場を提供するファシリテーターにとっては、さらに複雑な課題を抱えていると言えるでしょう。

 そして、デューイは、「教育者は他のどのような職業人よりも、遠い将来を見定めることにかかわっている。医者が自分の患者の将来について、指導したり忠告したりすることに熱中しておれば、そのかぎりでは医者は教育者としての職能を遂行していることになる。」と述べ、今ここでの対応・対処を考えるだけでなく、目の前の人(学習者となる人)に対して当該者の将来を見据えたかかわりをどれほど意識的に行えているかどうかが、教育者であるかどうかを識別するポイントであると考えています。このことは、現在、教育者や人の成長やチーム、組織の成長に関わるファシリテーターやコンサルタントにとっても、今の問題の対処や対応だけではなく、目の前の個人や組織の将来を見据えたかかわりを意識的にできているかどうかがとても大きな視点になるのではないでしょうか。

 上記のことの主張の根拠として、「過去を断ち切って、現在だけの知識に基づいて組み立てられた方策は、個人的な行動にみられる軽率で無思慮な身勝手なやり方に対応するものである。」と述べています。以下に過去ー現在ー未来と、時間的な拡張を大切にしながらかかわることの大切さを主張しています。そして、「与えられた現在の経験のなかに見いだされる経験条件を、このように思考を促すという問題を生じさせる源泉として利用するべきであるという考え方は、経験に立脚する教育の、伝統的教育から区別するうえでの特徴である。」と述べています。彼の体験から学ぶ、そして将来につながる経験と学びを創り出すためには、内省と思考・探究が重要であると考えています。

 そのことは、教育者の役割として2つのことを述べています。「第一に、この問題は現時点でもたれている経験の条件から起こり、それは生徒の能力の範囲内にあるということ。第二、問題は学習者の内面で新しい考え方が形成され算出されるために、積極的な探求を生じさせるということ。」と述べ、「こうして獲得された新しい事実や新しい考え方が、やがては新しい問題が提示されてくる更なる経験の基礎となる。このような過程では、経験が螺旋状に連続しているのである。」学びが繋がりながらさらなる高みに螺旋的に展開しながら、成長をとげると考えています。

 教材が、学習者の未来につながる成長を刺激する素材になるものの、一方では、「教材は生徒の経験それ自体の成長と一致しているため、教材の組織化は自由なもので、外部から押しつけられたものではない。」と述べています。このことは、とても難しい働きかけを教育者に要求しているように感じます。いかに学習差の経験を豊かにするために刺激を与える教材を提供することと、一方では、その教材が「外部からの押しつけられたものではない」という相矛盾するような見解があります。このことは、いかに学習者に寄り添い、学習者のこれまでの経験、そして今体験していること、そしてそれが未来にさらに機能するようになるための、学習者の状況にマッチした教材をいかに提供できることの大切さを述べているのではないかと考えます。デューイの教育実践の中には、学習者の状況を観察したり、情報をさまざまな方法でデータを収集して、学習者の理解をどれほどできているかがとても大切な教育者のありようとして考えられています。

 デューイは、「知的活動には、現存している多様な活動の条件から手段の選択ーー分析ーーと、意図的な目的や目標に到達するための手段の調整ーー総合ーーが含まれるという事実によって、知的活動は、無目的な活動とは区別される。」と述べながら、「経験の知的な組織化の問題が経験の基礎のうえで解決しないのであれば、その組織化の方法は外部から押しつけられるという反動が間違いなく起こってくるのである。」であると主張しています。学習者自身の中で起こることの大切さ、それは内省であり、思考・分析であり、意図的な目標に向けての思考・統合の過程が重要と考えているのでしょう。すべて、学習者中心の考え方と言ってもいいと思います。

 この章の最後の方には、「実験的方法のなかに表示されている知性の方法は、理念、活動、観察された結果の軌道を保持することを求めている。軌道を保持するということは、反省的再調査や総括の問題でもある。・・この反省こそ、経験の知的組織化の精髄であり、訓練された精神の真髄でもある」と述べ、「反省すること・内省すること」の重要さがしっかりと学びの中に位置づけられているのです。

 教育課程は、過去ー現在ー未来と将来への展望をもった活動であること、現在の体験の中で、過去の自分のありようから今を考え(内省し)、未来に向けての可能性を開くこと、そして、その活動が誰かにさせられたものではなく、学習者自ら内的な探究ができること、こうしたことの大切さを生かすことができる教材の必要性を伝えようとしているように、この章から考えることができました。