「Tグループ」と「経験と教育」(デューイ)第4章「社会的統制」

私なりですが、ラボラトリー方式の体験学習とりわけ「Tグループ」と「経験と教育(ジョン・デューイ著/市村尚久訳、講談社学術文庫、2004)の第1章「伝統的教育対進歩主義教育」、第2章「経験についての理論の必要」、第3章「経験の基準」とそれぞれ重ねて、ブログに書きました。この書籍,Tグループのファシリテーター(トレーナー)だけでなく、さまざまな教育に関わる方、組織開発に関わるコンサルタントなどの方に、広く学びの刺激を与えてくれそうです。
ぜひ、本著をお読みいただくことをおすすめします。
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今回は、第4章「社会的統制」をご紹介しながら、体験を大切にする教育にかかわる方のお役に立てば、幸いです。

デューイは、経験を構成する基本的な二つの原理とは、相互作用の原理と連続性の原理であると述べています。これは、とても大切な原理であり、人と人との相互作用のみならず、さまざまな社会的資源との相互作用を含んでおり、学習者が単独で学習するものではないと言いきっています。また、その学びの経験は、連続性をもっており、特に将来の経験にどのように結びついているのかといった配慮が必要であると述べています。

そして、この章では、思いの他、私たちは知らず知らずのうちに自由を制限されるコントロール下にあるかとも意識しておく必要があると述べています。その語りの最初に、「普通の善良な市民が、事実上社会的統制によく服従していること、そしてこの統制のかなりの部分が個人的自由の制限を含んでいるということには気づいていない」と述べ、ゲームの話が繰り広げられます。

「ゲームは規則をもっている。明白な統制的な特徴がある。第一に、規則はゲームの一部である。規則はゲームの外にあるのではない。第二、遊戯をしている個人が、時にゲームの進行上公平でないと感じ、しかも憤ることすらあるだろう。それは、ゲームの規則に対して反対しているのではなく、規則違反に対して、つまり一方的な不公平な行為に対して異議を唱えている。第三に、規則つまりゲームについての行為は、かなり標準化されているということ。」とし、「ゲームで役割を分担している人たちは、自分たちが一人の個人によって切り回されているとか、ある外部からの上位に立つ人物の異のままに服従させられているなどとは感じていない。」のであって、その全体性の中で個人は自由に行動しているのだと考えています。すなわち、「個人の行動の統制は、その個人が含まれ分担している協同的で相互作用的な役割をもっている全体的状況によって、効果的なものにされている」と考えているのです。

よって、「秩序を打ち立てるのは、一人ひとりの人間に意志や願望にあるのではなく、集団全体を推進させる精神なのである。しかもそのさい個人は共同体の一部であって、共同体の外部にあるのではない。」として、グループや全体の中での一メンバーとして関わりそれぞれの責任において参加意識があるかどうかがとても重要なのです。どうしても一人のリーダー、一人のトレーナー、一人のファシリテーターの意志や意見でグループが統制されているというようなことが起こっていることに対して、デューイはかなり警鐘をならしているのではないかと思います。

デューイは、「もっとも重要なことは、よく統制された家族または他の共同体集団のなかで問題の権威が行使されている場合、そのことは単なる個人的な意志の表明ではないということである。つまり、親や教師は権威を、全体としての集団の利害の代表者あるいは代行者として行使しているということになる。」と述べており、その中で、親や教師の制限的な関わりは最小限にとどめる必要があると考えています。まさに、私自身、Tグループなどでの学習体験を学習者自身の学び(オーナーシップ)をもつためには、トレーナーにはこの視点はとても重要なことになるだろうと考えています。

また、「教師は生徒たちに対し確固として話をし、行動しなければならないときには、それは集団の利害のためになされるのであって、教師個人の力を表示するものであってはならない。このことは、恣意的な行為と正当で公平である行為との間に一線を画するものである。」であると述べられており、いかに教師、トレーナー、ファシリテーターが自分の思いだけで関わることが学びをコントロールすることであるかを強く主張しています。逆に言えば、参加者に不公平感が生まれるような関わりは、教師・トレーナーの恣意的な働きかけを示していると言ってもいいのではないでしょうか。

「教師が秩序を保てたのは、秩序が生徒全員が分担しておこなっている作業のなかにあるのではなく、教師が生徒を管理し秩序を維持したことによったのである。」と述べています。このことは、思い起こせば、南山短期大学人間関係科初代学科長のメリット先生の学生にすべてを委ねるぐらいの自由さを提供しようとしたこと、そして私などは、いかにコントロールされた教室場面を創ろうとしていたかを思い知らされる言及でもあります。この背景には、学生、学習者をどれほど信じられるかといったとても重要な問いが、私自身によみがえってきます。

「結論は、社会的統制の根源は、すべての個人が貢献する機会をもち、それに対して個々人が責任を感じるような社会的事業として行われる作業の性質そのもののなかに存在しているということである。」と記載されています。すなわち、いかに学習者が一人ひとり意味ある存在、学び手として学んでいるという意識をもって、学習活動に参加できる環境を創り出しているかが、教師、トレーナー、ファシリテーターには重要な仕事なのです。

そして、教師によって創り出される教育計画は時として、学習者にお仕着せの経験を生み出す、もしくは押しつけることになることも十分に配慮しておく必要があるとも述べられています。「教育計画は、経験する個人の自由が、個別的に展開されるふさわしく十分柔軟なものであるのと同時に、他面において、個人の能力が持続的に発展する方向をしっかりと示すにふさわしいものでなければならない。」であり、いかに学習計画が展開時に柔軟に活用され、それは、あくまでも経験の連続性の原理において持続的に発展する方向に向かっているかを熟慮する必要があるのです。
「経験の発達が相互作用から生じるという原理は、教育が本質的に社会過程であることを意味する。この性質は、個々の生徒たちが共同体集団の形成にかかわる程度に応じて実現される。」と述べ、「教育が経験に基礎づけられ、教育的経験が社会過程であるとみられるとき、そこにみられる状況は根本的に一変してくる。つまり、教師は外部的な支配者あるいは独裁者としての立場を失って、集団の活動の指導者としての立場をとることになる。」と述べています。

Tグループなどのグループの成熟、共同体集団の形成(熟成)が起こると言うことは、まさに教師、トレーナーという立場から、一メンバーとして機能するようになると論じているのではないかと考えました。この章に示されている「社会的統制」の問題は、教育に関わる、また組織開発など人と人との関わりをより民主的な風土に創造していく立場の人間としては、とても重要なテーマだと考えられます。