易経から学ぶファシリテーション(08)
■「兆しを観ること」が可能なのか?■
シリーズ(07)において、「兆し」を観るための、目に見えるここの動きの変化を丁寧に見て、観ることができるようになることがファシリテーターの大きな働きであることを紹介しました。
「易は窮まれば変ず。変ずれば通ず。通ずれが久し。」という言葉あるそうです。このことは、この世のあらゆるものは究極に達すると変化するということの意味だそうです。「究極」とは、とことんまでいってピークに達するということだそうです。つまり冬が窮まれば春になるというわけです。春が窮まれば夏になるというように、ものごとは行き詰まることなく、新たに成長し発展していくと考えられています。
易経では、ものごとが窮まったときに、兆しが生じていると教えてくれています。これもあっこちゃん(2012)の中でのお話です。易経では、冬がピークを迎えるのを冬至としています。これが潜象の意味として理解するとよいそうです。冬至は12月22日頃ですが、冬本番はこれからなのに、こんんなに早くという感じです。
冬至は、一年で一番、日が短くなり、この日を境に日が長くなっていくのです。「易は窮まれば変ず」とのことです。潜象として冬が春へと向かう瞬間なのです。このように春の兆しは、私たちが春を肌で感じるずっと前に生じていますが、兆しから萌しがあらわれるまでには、かなり時間差があるのです。苦しい時期を乗り越えたことを思い出す際に、後から思い返すと、あのことがきっかけだったかと思い出すことがあるでしょう。ただ、その時には、まだ苦しいまっただ中でいると、その兆しさえ感じ取れていないこともあります。それがしばらく時間を経て後からみると、今はこんなに改善したかと思えるように状態になっているということがあるのでしょう。
「易は窮まれば変ず。変ずれば通ず。通ずれが久し。」の言葉を理解していくと、前の(07)で書いていたファシリテーターは「兆し」を観ることが大切な働きと言うことは、大それた発言であったと言わなければなりません。グループ体験の渦中にいて、とても厳しく、苦しい時を過ごしている時に、春を感じる兆しを観ることができればいいのですが、それは欲張りなことのように思います。兆しを観るよりも、その苦しい状況である「今ここ」の中でメンバーとともにいることが大切なのではないかと思えてきます。この先には窮まれば開かれてくる、変化してくる世界が生まれるということを信じて、メンバーと生きることができることが、ファシリテーターの大切な働きかけ、生き方と言えるのではないでしょうか。
そのようなことを易経の「兆しを観る」から考えてみました。