所長ブログ

2017年5月26日|

「Tグループ」と「経験と教育」(デューイ)第7章「教材の進歩主義的組織化」

 私なりですが、ラボラトリー方式の体験学習とりわけ「Tグループ」と「経験と教育(ジョン・デューイ著/市村尚久訳、講談社学術文庫、2004)の第1章「伝統的教育対進歩主義教育」、第2章「経験についての理論の必要」、第3章「経験の基準」、第4章「社会的統制」、第5章「自由の本性」、第6章「目的の意味」と読み進めてきて、ブログに書きました。この書籍,Tグループのファシリテーター(トレーナー)だけでなく、さまざまな教育に関わる方、組織開発に関わるコンサルタントなどの方に、広く学びの刺激を与えてくれそうです。
 ぜひ、本著をお読みいただくことをおすすめします。
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 今回は、第7章「教材の進歩主義的組織化」をご紹介しながら、体験を大切にする教育にかかわる方のお役に立てば、幸いです。体験からの学びとその教材との関係とはなかなか難しいテーマです。ラボラトリー方式の体験学習の中にあっては、体験を概念化したり、一般化するためのツールとして教材(テキスト)があると考えられます。一方、体験を促すツール(刺激)としての教材を考えると、これはなかなか複雑です。どのような実習素材を考えるか?または、体験の中でどのような刺激を与えることができる教材であるか?このことは、体験から学ぶことを支援している身としては考えていかなければならないことです。往々にして、体験学習を尊重する人たちの間には、ファシリテーターが提供する教材(実習や理論/モデル)の提供を後回しにしてしまう傾向がある人たちがいます。体験と同じぐらい教材については考えていく必要がありそうです。以下のデューイのテキストの中から限りあるメッセージですが、拾い出してみたいと思います。

 デューイは、「教育が経験として考えられるようになると、・・教科と呼ばれるものは、算数、歴史、地理、あるいは自然科学の一つであれ、どのようなものであってもその発端は、日常生活経験の範囲内にある材料から引き出されなければならない。」と述べ、教材自身は学習者の日常経験の範囲から引き出される必要性があると考えています。また、デューイは、「経験の内部に学習のための教材を見つけ出すことは、新しい学習の最初の段階にすぎない。次の段階は、経験されたものをより豊かに一段と組織化された形態へと進展させることである。」と述べ、あくまでも未来に向けて、学習者がより発展的に現在の体験と教材とをつなぎ合わせながらより高度な組織化が行われるように働きかけることが教育者の仕事して大切であることを述べています。

 上記のことを示唆するメッセージとして、「経験の本来的な教材は、新しい能力を喚起する新しい事物や出来事と結びつくようになると同時に、これら新しい能力の行使により、経験の内容は洗練され拡大されるのである。そこに、生活の空間と生活の期間が拡大されるのである。」とデューイは述べています。そして、教育的条件として2つのことを記述しています。「教育的条件その1:教授するということは、学習者がすでに具備している経験からはじまるといこと、およびその経験が推移していく過程に発展させられてきた更なる経験と能力が、すべての将来の学習の出発点を提供するということである。」「教育条件その2:経験の成長をとおして、教科は拡大され組織立てられていくことが秩序整然となされていくということには、それほど確信のもてるものではない。」であり、「いま問題にしている二つの教育条件としての要素は、年長の子どもたちに当てはめようとすると、問題をますますむずかしくしてはそれを教育者に投げかけている。」と述べ、幼少時の子どもの発達に関わる教育者とさらに成長を促し、年齢も高くなっていく子どもたちに対する働きかけの難しさを指摘している。このことからすると、成人が体験から学ぶ場を提供するファシリテーターにとっては、さらに複雑な課題を抱えていると言えるでしょう。

 そして、デューイは、「教育者は他のどのような職業人よりも、遠い将来を見定めることにかかわっている。医者が自分の患者の将来について、指導したり忠告したりすることに熱中しておれば、そのかぎりでは医者は教育者としての職能を遂行していることになる。」と述べ、今ここでの対応・対処を考えるだけでなく、目の前の人(学習者となる人)に対して当該者の将来を見据えたかかわりをどれほど意識的に行えているかどうかが、教育者であるかどうかを識別するポイントであると考えています。このことは、現在、教育者や人の成長やチーム、組織の成長に関わるファシリテーターやコンサルタントにとっても、今の問題の対処や対応だけではなく、目の前の個人や組織の将来を見据えたかかわりを意識的にできているかどうかがとても大きな視点になるのではないでしょうか。

 上記のことの主張の根拠として、「過去を断ち切って、現在だけの知識に基づいて組み立てられた方策は、個人的な行動にみられる軽率で無思慮な身勝手なやり方に対応するものである。」と述べています。以下に過去ー現在ー未来と、時間的な拡張を大切にしながらかかわることの大切さを主張しています。そして、「与えられた現在の経験のなかに見いだされる経験条件を、このように思考を促すという問題を生じさせる源泉として利用するべきであるという考え方は、経験に立脚する教育の、伝統的教育から区別するうえでの特徴である。」と述べています。彼の体験から学ぶ、そして将来につながる経験と学びを創り出すためには、内省と思考・探究が重要であると考えています。

 そのことは、教育者の役割として2つのことを述べています。「第一に、この問題は現時点でもたれている経験の条件から起こり、それは生徒の能力の範囲内にあるということ。第二、問題は学習者の内面で新しい考え方が形成され算出されるために、積極的な探求を生じさせるということ。」と述べ、「こうして獲得された新しい事実や新しい考え方が、やがては新しい問題が提示されてくる更なる経験の基礎となる。このような過程では、経験が螺旋状に連続しているのである。」学びが繋がりながらさらなる高みに螺旋的に展開しながら、成長をとげると考えています。

 教材が、学習者の未来につながる成長を刺激する素材になるものの、一方では、「教材は生徒の経験それ自体の成長と一致しているため、教材の組織化は自由なもので、外部から押しつけられたものではない。」と述べています。このことは、とても難しい働きかけを教育者に要求しているように感じます。いかに学習差の経験を豊かにするために刺激を与える教材を提供することと、一方では、その教材が「外部からの押しつけられたものではない」という相矛盾するような見解があります。このことは、いかに学習者に寄り添い、学習者のこれまでの経験、そして今体験していること、そしてそれが未来にさらに機能するようになるための、学習者の状況にマッチした教材をいかに提供できることの大切さを述べているのではないかと考えます。デューイの教育実践の中には、学習者の状況を観察したり、情報をさまざまな方法でデータを収集して、学習者の理解をどれほどできているかがとても大切な教育者のありようとして考えられています。

 デューイは、「知的活動には、現存している多様な活動の条件から手段の選択ーー分析ーーと、意図的な目的や目標に到達するための手段の調整ーー総合ーーが含まれるという事実によって、知的活動は、無目的な活動とは区別される。」と述べながら、「経験の知的な組織化の問題が経験の基礎のうえで解決しないのであれば、その組織化の方法は外部から押しつけられるという反動が間違いなく起こってくるのである。」であると主張しています。学習者自身の中で起こることの大切さ、それは内省であり、思考・分析であり、意図的な目標に向けての思考・統合の過程が重要と考えているのでしょう。すべて、学習者中心の考え方と言ってもいいと思います。

 この章の最後の方には、「実験的方法のなかに表示されている知性の方法は、理念、活動、観察された結果の軌道を保持することを求めている。軌道を保持するということは、反省的再調査や総括の問題でもある。・・この反省こそ、経験の知的組織化の精髄であり、訓練された精神の真髄でもある」と述べ、「反省すること・内省すること」の重要さがしっかりと学びの中に位置づけられているのです。

 教育課程は、過去ー現在ー未来と将来への展望をもった活動であること、現在の体験の中で、過去の自分のありようから今を考え(内省し)、未来に向けての可能性を開くこと、そして、その活動が誰かにさせられたものではなく、学習者自ら内的な探究ができること、こうしたことの大切さを生かすことができる教材の必要性を伝えようとしているように、この章から考えることができました。


2017年4月26日|

「Tグループ」と「経験と教育」(デューイ)第6章「目的の意味」

 私なりですが、ラボラトリー方式の体験学習とりわけ「Tグループ」と「経験と教育(ジョン・デューイ著/市村尚久訳、講談社学術文庫、2004)の第1章「伝統的教育対進歩主義教育」、第2章「経験についての理論の必要」、第3章「経験の基準」、第4章「社会的統制」、第5章「自由の本性」と読み進めてきて、ブログに書きました。この書籍,Tグループのファシリテーター(トレーナー)だけでなく、さまざまな教育に関わる方、組織開発に関わるコンサルタントなどの方に、広く学びの刺激を与えてくれそうです。
 ぜひ、本著をお読みいただくことをおすすめします。
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 今回は、第6章「目的の意味」をご紹介しながら、体験を大切にする教育にかかわる方のお役に立てば、幸いです。

 デューイは、「健全な本能によってこそ、目的を組み立て、その目的を効果的に実行に移す能力が自由に発揮できるようにと、自由と能力とが同一化されるものである。このような自由は、次には、自制と同一化されることになる。なぜなら、目的を形成しその目的を実施する手段を組織立てるのは、知性のはたらきによるからである。」と述べ、学ぶ方向づけとしての目的の大切さ、そしてその目的を成就するために働かせる知性の力を大切に扱おうとしています。そして、「伝統的教育においては、生徒の学業のなかに含まれている目的を構成するさいに、生徒が積極的に協力することが保証されていない。このことが伝統的教育の最大の欠陥である。」として、逆に言うと、いかに生徒自身が目的を自分たちの力で作り上げることができるかが教育における大きなポイントになるのではないでしょうか。

 デューイは、「目的や目標の教育上の重要性が強調されればされるほど、その目的とは何か、その目的はどのようにして生じたのか、またその目的は経験のなかでどのように機能するのか、といったことを理解することが一段と重要になってくる。」と述べ、衝動的な目的や意図からさらに知性の働きを生かし、なぜその目的が生まれたのか、そして最終の目的はどのようなところにあるのかを明確にすることが大切であると述べています。

 デューイは、「知性の作用には、第一に、客観的条件と環境とを観察することが求められる。というのは、衝動と欲望はそれ自体で結果を生むことはできなく、周囲の状況との相互作用や協同によってのみ、結果というものが生み出されるからである。」と述べ、いかに学習者と他者や環境との相互作用が結果を生み出していくか、まさに社会構築主義の考え方の一端がここにあると言ってもいいのではないかと思います。

 デューイは、「目的の形成は・・むしろ複雑な知的作用としてなされる。(1)周囲の状況の観察、(2)過去の似たような状況で起こったことについてお知識、その一部分は回想によって得られた知識、また一部分は広い知識をもった人からの情報・忠告・警告から得られた知識、(3)それら得られた知識が内を意味するのかを理解するため、観察されたものと回想されたものとを結合する判断力。」と述べ、この適切な目的の形成の中に教育の本質があると言ってもいいのではないかと思われます。

 デューイは、「伝統的教育は、個人的な衝動や欲望が、行為の原動力として重要性のあることを無視しがちである。」と述べ、衝動性や欲望が行動の原動力であると認識する必要性を強調すると共に、「教師の仕事は、衝動や欲望が生じるや、それを好機に利用する点を見定めることである。」として、学び手の中に起こる行為への原動力となる衝動や欲望の発見は重要なポイントになると言えるでしょう。

 デューイは、「自由は、目的が発展するさいに、知的な観察と判断とがはたらいているところに存在するので、生徒が知性を実地にはたらかせることができるように、教師によって与えられる指導は、生徒の自由を制限するものではなく、むしろ自由を助長するものである。」として、自由を助長することによって学習者の知的な観察と判断が働き、知性をは鱈かsdルことができるようになるというのです。いかに、自由な環境を学習者と共に創ることができるかが、学習者の学びに影響を与えると考えられているのです。

 デューイは、「教師の職権を乱用して、生徒の活動を、生徒の目的というよりは教師の目的を表明している方針に強制的に追い込むことは可能である。このような危険を避ける方法として2つある。」として教師が意図的に生徒を教師が思う報告に導いてしまう可能性があると述べています。いかに教師が生徒に働きかけるか、その時の配慮がかなり大切になるのです。そのときの視点として、2つの視点が圧力をかけない方向に役立つだろうと述べています。それは、「第一には、教師は自分が教えている生徒の能力、要求、過去の経験について、知的に気づいていなければならない」とまず、教師の感受性の問題が挙げられます。次に、「第二に、集団の成員である生徒が役割を分担し、一つの全体へと更なる貢献がなされ、組織立てられていくような示唆によって、その示唆を教育や企画にまで発展させようとすること」を述べています。いかに自由な、そして機能的なグループに成長しているかがとても大切であると述べているのです。

 教育に関わる「計画と言うものは協同事業であって、指図ではない。」と述べ、いかに学習者相互にやりとりが行われるかがとても重要な視点になるのです。ただ、指図であることを恐れるのではなく、「教師は受け取りもすれば与えもすることをためらうものではあってはならない。」と一方では述べています。いかに、教師が学習者の中で自由にいられるか?また、相互依存の関係、信頼の関係を創り出せているかがとても大きな教育環境になることを伝えようとしてくれているのではないかと思います。

 本章の最後には、「要点は、目的が社会的知性の過程を通じて成長し、形成されるということにほかならない。」と述べています。目的をどのように学習者が展開することができるようになるかが教育のとても重要な課題と一定かもしれません。


2017年4月2日|

「Tグループ」と「経験と教育」(デューイ)第5章「自由の本性」

 私なりですが、ラボラトリー方式の体験学習とりわけ「Tグループ」と「経験と教育(ジョン・デューイ著/市村尚久訳、講談社学術文庫、2004)の第1章「伝統的教育対進歩主義教育」、第2章「経験についての理論の必要」、第3章「経験の基準」、第4章「社会的統制」とそれぞれ重ねて、ブログに書きました。この書籍,Tグループのファシリテーター(トレーナー)だけでなく、さまざまな教育に関わる方、組織開発に関わるコンサルタントなどの方に、広く学びの刺激を与えてくれそうです。
 ぜひ、本著をお読みいただくことをおすすめします。
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 今回は、第5章「自由の本性」をご紹介しながら、体験を大切にする教育にかかわる方のお役に立てば、幸いです。

 デューイは、「永遠に重要である唯一の自由は知性の自由であり、すなわち、本来的に価値が備わっている目的のために観察や判断がなされる自由である。」と述べています。これはこの章の最後に書かれています「思考することは、このようにして即時的に行動することを延期することになるが、同時に、観察と記憶の結合を通じて、衝動の内的抑制に効果を挙げているのである。このような結合こそ、反省するということの精髄である。」と述べていることと通じると考えられます。

 私たちは、自然に発生する衝動や願望で、行為は始まりますが、その衝動や願望だけで突き進む行動だけでは成長はなく、なんらかの形で一度立ち止まり、その思いを再構成したり改造することによって知的な成長は生まれるのだと言ってくれています。思考の活動とは、即時的な行動を一度延期し、内省する時をもつことだと考えており、そのことがとても大切なのだと考えています。

 デューイは、制限から解放される自由は、いろいろなことを成し遂げる力として自由をたたえておくべきだろうと述べています。それらの力は、「目的を形成する力であり、賢明に判断する力であり、願望を実践したことからの結果によって願望を評価する力であり、選定された目的を実施する手段を選択し、秩序あるものにする力である。」と考えています。いかに内省するか、その内省の時が、上述の力の育成にも役立つだろうと考えています。

 年齢に関係なくというか、年少の子どもにおいてさえも、「静かに反省するため、しばし合間の時間が必要である。しかし、この短い合間が、見た目に一段と明らかな活動に費やされた時間の後に続くとき、またこの短い合間が、頭脳のほかに手や身体の他の部分が使われるさいの活動の期間に獲得されたものを組織立てるために用いられるときにのみ、この合間が本物の反省の期間になるのである。運動の自由もまた、正常な身体的・精神的健康の手段として重要である。」としているのです。いかに体験活動の合間に内省の時間を組み入れていくか、このことはとても大切な時になるのです。

 こうしたことからも、ちょっと大胆ですが、活動→活動→活動と続くようなプログラム構成よりは、活動→内省→活動→内省→活動、そしてそれは、体験学習のステップに示されるような、活動(体験)→立ち止まる(内省と観察)→考える(分析)→次の行動に向けて取り組みを考える(仮説化)といった内省の時間が必要なるのだろうと思います。このことは、Tグループ線ションなどを組み入れた合宿形式の研修においても同様で、Tグループセッションばかりが続くプログラムよりは、一日の中で長く休み時間を組み入れたような長い研修プログラムが必要になると考えています。そのようなことから、私は、Tグループセッションを組み入れた研修は、5泊6日ぐらいは要するプログラムで実施したいのです。

 そして、デューイは、「活動の外的・身体的側面は、内面的な活動、すなわち思考や願望や目的の自由から分離することはできない。」と述べ、据え付けられた机や合図で行動を支持されるような学習者の環境では、「生徒の知的・道徳的な自由に大きな束縛を与え」ているのだと考えています。それゆえ、「外面的な自由度が増大していくさいのいま一つの重要な利点は、まさに学習過程の本質それ自体のなかに見いだされる。」と考えています。

 なぜなら、「外的自由の増大がもたらす潜在的利点。第一に外面的な自由が増大するという現象がなければ、教師は実際問題として、自分が扱っている個々の生徒について知識を得ることができない。強要された静粛や黙従というものは、生徒たちが自分たちの真の本性を明示するのを妨げる。」からだと考えています。このことは、第4章の「社会的統制」のところでも述べましたが、学習者がいかに自由に自分の行動の振る舞いができるようになるか、それは、教育者が十分に配慮し外的環境づくりに励むと同時に、学習者との関係の中で自由で相互信頼の関係を創っていくことが究極の命題と言っていいのかもしれません。

 このことは、現在の企業内の活動においても、学校教育場面においても、また看護医療従事者が勤務する施設においても、同じようなことが言えるのではないでしょうか。いかにその組織の中で従事する人々が自由を得て、内省する時間をもてるかかわりになっているかがとても重要になるのでしょう。各場面での支援者は、このことをしっかりと心にとめておき実践することが大切になるでしょう。


2017年3月29日|

「Tグループ」と「経験と教育」(デューイ)第4章「社会的統制」

 私なりですが、ラボラトリー方式の体験学習とりわけ「Tグループ」と「経験と教育(ジョン・デューイ著/市村尚久訳、講談社学術文庫、2004)の第1章「伝統的教育対進歩主義教育」、第2章「経験についての理論の必要」、第3章「経験の基準」とそれぞれ重ねて、ブログに書きました。この書籍,Tグループのファシリテーター(トレーナー)だけでなく、さまざまな教育に関わる方、組織開発に関わるコンサルタントなどの方に、広く学びの刺激を与えてくれそうです。

 ぜひ、本著をお読みいただくことをおすすめします。

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 今回は、第4章「社会的統制」をご紹介しながら、体験を大切にする教育にかかわる方のお役に立てば、幸いです。


 デューイは、経験を構成する基本的な二つの原理とは、相互作用の原理と連続性の原理であると述べています。これは、とても大切な原理であり、人と人との相互作用のみならず、さまざまな社会的資源との相互作用を含んでおり、学習者が単独で学習するものではないと言いきっています。また、その学びの経験は、連続性をもっており、特に将来の経験にどのように結びついているのかといった配慮が必要であると述べています。


 そして、この章では、思いの他、私たちは知らず知らずのうちに自由を制限されるコントロール下にあるかとも意識しておく必要があると述べています。その語りの最初に、「普通の善良な市民が、事実上社会的統制によく服従していること、そしてこの統制のかなりの部分が個人的自由の制限を含んでいるということには気づいていない」と述べ、ゲームの話が繰り広げられます。


 「ゲームは規則をもっている。明白な統制的な特徴がある。第一に、規則はゲームの一部である。規則はゲームの外にあるのではない。第二、遊戯をしている個人が、時にゲームの進行上公平でないと感じ、しかも憤ることすらあるだろう。それは、ゲームの規則に対して反対しているのではなく、規則違反に対して、つまり一方的な不公平な行為に対して異議を唱えている。第三に、規則つまりゲームについての行為は、かなり標準化されているということ。」とし、「ゲームで役割を分担している人たちは、自分たちが一人の個人によって切り回されているとか、ある外部からの上位に立つ人物の異のままに服従させられているなどとは感じていない。」のであって、その全体性の中で個人は自由に行動しているのだと考えています。すなわち、「個人の行動の統制は、その個人が含まれ分担している協同的で相互作用的な役割をもっている全体的状況によって、効果的なものにされている」と考えているのです。


 よって、「秩序を打ち立てるのは、一人ひとりの人間に意志や願望にあるのではなく、集団全体を推進させる精神なのである。しかもそのさい個人は共同体の一部であって、共同体の外部にあるのではない。」として、グループや全体の中での一メンバーとして関わりそれぞれの責任において参加意識があるかどうかがとても重要なのです。どうしても一人のリーダー、一人のトレーナー、一人のファシリテーターの意志や意見でグループが統制されているというようなことが起こっていることに対して、デューイはかなり警鐘をならしているのではないかと思います。


 デューイは、「もっとも重要なことは、よく統制された家族または他の共同体集団のなかで問題の権威が行使されている場合、そのことは単なる個人的な意志の表明ではないということである。つまり、親や教師は権威を、全体としての集団の利害の代表者あるいは代行者として行使しているということになる。」と述べており、その中で、親や教師の制限的な関わりは最小限にとどめる必要があると考えています。まさに、私自身、Tグループなどでの学習体験を学習者自身の学び(オーナーシップ)をもつためには、トレーナーにはこの視点はとても重要なことになるだろうと考えています。


 また、「教師は生徒たちに対し確固として話をし、行動しなければならないときには、それは集団の利害のためになされるのであって、教師個人の力を表示するものであってはならない。このことは、恣意的な行為と正当で公平である行為との間に一線を画するものである。」であると述べられており、いかに教師、トレーナー、ファシリテーターが自分の思いだけで関わることが学びをコントロールすることであるかを強く主張しています。逆に言えば、参加者に不公平感が生まれるような関わりは、教師・トレーナーの恣意的な働きかけを示していると言ってもいいのではないでしょうか。


 「教師が秩序を保てたのは、秩序が生徒全員が分担しておこなっている作業のなかにあるのではなく、教師が生徒を管理し秩序を維持したことによったのである。」と述べています。このことは、思い起こせば、南山短期大学人間関係科初代学科長のメリット先生の学生にすべてを委ねるぐらいの自由さを提供しようとしたこと、そして私などは、いかにコントロールされた教室場面を創ろうとしていたかを思い知らされる言及でもあります。この背景には、学生、学習者をどれほど信じられるかといったとても重要な問いが、私自身によみがえってきます。


 「結論は、社会的統制の根源は、すべての個人が貢献する機会をもち、それに対して個々人が責任を感じるような社会的事業として行われる作業の性質そのもののなかに存在しているということである。」と記載されています。すなわち、いかに学習者が一人ひとり意味ある存在、学び手として学んでいるという意識をもって、学習活動に参加できる環境を創り出しているかが、教師、トレーナー、ファシリテーターには重要な仕事なのです。


 そして、教師によって創り出される教育計画は時として、学習者にお仕着せの経験を生み出す、もしくは押しつけることになることも十分に配慮しておく必要があるとも述べられています。「教育計画は、経験する個人の自由が、個別的に展開されるふさわしく十分柔軟なものであるのと同時に、他面において、個人の能力が持続的に発展する方向をしっかりと示すにふさわしいものでなければならない。」であり、いかに学習計画が展開時に柔軟に活用され、それは、あくまでも経験の連続性の原理において持続的に発展する方向に向かっているかを熟慮する必要があるのです。
 「経験の発達が相互作用から生じるという原理は、教育が本質的に社会過程であることを意味する。この性質は、個々の生徒たちが共同体集団の形成にかかわる程度に応じて実現される。」と述べ、「教育が経験に基礎づけられ、教育的経験が社会過程であるとみられるとき、そこにみられる状況は根本的に一変してくる。つまり、教師は外部的な支配者あるいは独裁者としての立場を失って、集団の活動の指導者としての立場をとることになる。」と述べています。


 Tグループなどのグループの成熟、共同体集団の形成(熟成)が起こると言うことは、まさに教師、トレーナーという立場から、一メンバーとして機能するようになると論じているのではないかと考えました。この章に示されている「社会的統制」の問題は、教育に関わる、また組織開発など人と人との関わりをより民主的な風土に創造していく立場の人間としては、とても重要なテーマだと考えられます。


2017年2月14日|

「Tグループ」と「経験と教育」(デューイ)第3章「経験の基準」

 私なりですが、ラボラトリー方式の体験学習とりわけ「Tグループ」と「経験と教育(ジョン・デューイ著/市村尚久訳、講談社学術文庫、2004)の第1章「伝統的教育対進歩主義教育」、第2章「経験についての理論の必要」とそれぞれ重ねて、ブログに書きました。この書籍,Tグループのファシリテーター(トレーナー)だけでなく、さまざまな教育に関わる方、組織開発に関わるコンサルタントなどの方に、広く学びの刺激を与えてくれそうです。

 ぜひ、本著をお読みいただくことをおすすめします。
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 今回は、第3章「経験の基準」をご紹介しながら、体験を大切にする教育にかかわる方のお役に立てば、幸いです。

 「経験的連続性といったカテゴリーは、教育的に価値のある経験とそうでない経験との間を識別するためのあらゆる試みに関わりをもっている」と考え、経験し成長することは、知的にも道徳的にも発達するモノとしての成長することは、連続の原理の一つの例証に過ぎなく、成長はさまざまな方向に展開すると考えています。強盗することを学び高度に熟達した強盗人間に成長することもあると述べています。いかに現在の経験が未来の経験、それも道徳的にも知的にも成長する経験につなげることができるかが大切になるのです。経験がどのような方向をとっているのかを知ることは、教育者の仕事であると考えています。

 また、経験というものは、いずれも動きゆく動力になると考えています。経験が好奇心を喚起し独創力を高める方向に動き、強烈な願望や目的を創り出すならば、その経験は連続してきわめて様々な方法で動いていると考えているのです。

 これらのことから、今目の前の学習者が何を求め、何をしたいと考えているかを大切にすること、そしてそれを原動力に未来に向けて適切な経験を準備することが教育者の大切な仕事であると考えています。

 そのためには、「教育者は未成熟者個人を個人として共感する理解力をもたなければならない。その共感力が、学習している人々の精神のなかで実際に進行しているものについてのアイディアを、教育者に与えてくれる。」として、このような共感する能力が、なによりも教育者に求められるのです。いかに学習者の気持ちや意図を共感的に理解し、それを促進するための実現可能な目的にできるような働きが教育者には必要になるのです。

 デューイは、あくまでも「経験を引き起こす源は、個人の外にある。」と考えており、教育者は、価値ある経験の形成に寄与するにちがいないすべてのものが引き出せるように、彼らを取り巻く環境をどのように利用すべきであるかを知らなければならないとしています。いかに学習者の関わる人や物や概念などさまざまな環境要因を教育者は準備していくことがとても大切になるということです。

 Tグループをはじめラボラトリー方式の体験学習を実践する教育者にとっては、いかに学習者を共感的に理解し、その学びの方向性をともに考え、その方向に向かうための環境を創り出していくのが重要な働きと考えられます。

 以上のような経験の連続性の原理に従った基準で、学びのための経験を考えていく必要があります。一方、「個人が世界のなかで生きる」ということは、具体的には、個人が状況の連続のなかに生きていることを意味しており、「なかに」の意味は、相互作用が個人と対象物あるいは他の人との間で進行していることを意味していると考えています。「『状況』とか『相互作用』という概念は、相互に分離しては成り立たない概念である」とデューイは述べています。「相互に能動的に結合している連続性と相互作用とが、経験の教育的意義と価値をはかる尺度を提供すると考え、教育者の関心の的は相互作用が生じる状況であり、この状況に個人が一つの要素として入り込んでこそ、その時点ではじめて個人は具体的な自分自身であることになる。」と考えています。

 このことは、まさにラボラトリー方式の体験学習(Tグループ)体験の中に、いかに学習者個人が関与(コミット)できるような環境(場)を創り出すのが教育者の仕事といえるのでしょう。教育の現場において、未来という視点を考慮した環境作りが重要になると考えています。未来の視点を大切にした学びの場づくりが大切だといっても、あくまでも成長あるいは成熟としての教育は、常に未来のために今を犠牲にするのではなく、常に現在の過程を考える必要があると強調しています。まさに「今ここ」の体験を大切にするということです。

 以上を、第3章「経験の基準」のまとめとTグループなどラボラトリー方式の体験学習の実践者としてのファシリテーターの働きのヒントにしたいことを記してみました。


2017年2月5日|

「Tグループ」と「経験と教育」(デューイ)第2章「経験についての理論の必要」

 私なりですが、ラボラトリー方式の体験学習とりわけ「Tグループ」と「経験と教育(ジョン・デューイ著/市村尚久訳、講談社学術文庫、2004)の第1章「伝統的教育対進歩主義教育」と重ねてみました。前回は、このように書きましたが、この書籍,Tグループのファシリテーター(トレーナー)だけでなく、さまざまな教育に関わる方、組織開発に関わるコンサルタントなどの方に、広く学びの刺激を与えてくれそうです。
 ぜひ、本著をお読みいただくことをおすすめします。
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 今回は、第2章「経験についての理路の必要」をご紹介しながら、体験を大切にする教育にかかわる方のお役に立てば、幸いです。

 デューイは、「真実の教育はすべて、経験をとおして生じるという信念があるが、そのことはすべての経験が本当に教育的なもので、またすべての経験は同等なものであるということを意味するものではない。」と述べ、何でも経験・体験を尊重すればよいかといえば、そうではないと主張します。経験が価値を持つものと、そうでないものとの識別はできると考えています。その基準は、「どのような経験も、つぎに展開してくる更なる経験の成長を阻止したり歪めたりするような影響をもたらすようでは、それは非教育的なものであるといわざるをえない。・・ある経験は、感受性を欠落させ、物事に反応しない状況を生み出すかもしれない。」とのべ、その経験の後に来る、未来の体験にどのような影響を与えているかがい大きな基準と考えています。楽しいだけの体験、または厳しいだけの体験で、自分がこれからの感受性を豊かなものにする体験になっているか?とても大切な体験なのだと。優しすぎる介入も、対決的な厳しい介入も、学び手の次の行動や考え方にどのように影響を与えているかを考える必要があるということです。

 経験の質には、2つの質があるのだと述べています。「何よりも重要なことは、もたれる経験の「質」にかかっているのである。いかなる経験の質も、二つの側面をもっている。すなわち、それが快適なものであるかといった直接的な側面と、経験がその後の経験にどのように影響を及ぼすかという側面である。」この2つの質、特に経験後の経験にどのような影響を与えるかを強調しています。体験の連続性の原理にかかわる考え方です。

 特に、経験の連続性の原理関わる考え方として、「経験に根ざした教育の中心的課題は、継続して起こる経験のなかで、実り豊かに創造的に生きるような種類の現在の経験を選択することにかかっているのである。」と述べています。今ここでの体験がその後の創造的な経験にどれほど結びついているかの視点の大切さを強調しています。
 その中で、デューイは、「哲学について、民主主義に関するリンカーンの言葉に言い換えて、経験の、経験による、経験のための教育に関する哲学である」と述べています。興味深い言葉です。
 最後に、この章では、デューイは、「私はよろこんで、新教育が原理上、旧教育よりも単純であることを認めるものである。」とのべ、基本的な原理としては非常にシンプルであるが、もう一方では「『易しいこと』と『単純なこと』とは同一のことがではない。」と明言しています。この言葉はとても意味がある言葉だと思います。

 Tグループをはじめ、一人ひとりを尊重する教育や組織開発において、人間に対する尊厳の大切さは言うは易しいが、行うが難しいことと重なるのではないかと考えています。

 デューイの一つ一つの言葉は、津村のラボラトリー方式の体験学習にかかわるファシリテーターのありようを考える大切なヒントになっています。


2017年2月1日|

ジョン・デューイ「経験と教育」:第4章「社会的統制」

 経験と教育(ジョン・デューイ)第4章「社会的統制」では、普通の善良な市民が、事実上社会的統制によく服従していること、そしてこの統制のかなりの部分が個人的自由の制限を含んでいるということには気づいていないとデューイは述べる。まさに、社会的統制は、どのような状況にも起こっていることを認識すべしといったところでしょうか。それは、スポーツのゲームの規則のようなもので、メンバー全員で認識されて公平に行われているときはあまり意識されない。親や教師は権威を、全体としての集団の利害の代表者あるいは代行者として行使していると考えている。
 子どもにとってみると、恣意的な行為と正当である公平である行為の相違は、大半の子どもは感じてわかっているのです。いかに特定の人や事柄に対しての影響力ではなく、コミュニティ、グループ全体に公平に影響を与えることができるような集団活動の指導屋になることの大切さをデューイは述べています。

下記の記述は、「経験と教育」ジョン・デューイ著、市村尚久訳(講談社学術文庫)より抜き書きしたものです。関心を持たれましたら、本書をご購入いただき、お読みください。

経験と教育(デューイ)教育が経験に基礎づけられ、教育的経験が社会過程であるとみられるとき、そこにみられる状況は根本的に一変してくる。つまり、教師は外部的な支配者あるいは独裁者としての立場を失って、集団の活動の指導者としての立場をとることになる。

経験と教育(デューイ)経験の発達が相互作用から生じるという原理は、教育が本質的に社会過程であることを意味する。この性質は、個々の生徒たちが共同体集団の形成にかかわる程度に応じて実現される。・・教師というものは、共同体集団のなかで最も成熟した成員であるので、その共同体生活そのものである相互作用と相互伝達の行為について、教師ならではの特別の責任をもっている。

経験と教育(デューイ)教育計画は、経験する個人の自由が、個別的に展開されるふさわしく十分柔軟なものであるのと同時に、他面において、個人の能力が持続的に発展する方向をしっかりと示すにふさわしいものでなければならない。

経験と教育(デューイ)教師によって準備された教育計画は、厳密に固定された知的なやり方でつくられているので、その計画が生徒個人の自由を尊重するものであるといったところで、いざその計画を実施するとなると、その自由は如才なく見せかけの外的なものとなるのである。結局、自由は外的なもの、つまりおとなの押しつけにすぎないものとなる。

経験と教育(デューイ)状況を創り出す作業を前もって用意することに失敗したことから生じる。・・前もっての計画立ては不要であるという考え方にあり、また教授されるものがもつ正当な自由に敵対する考え方である。

経験と教育(デューイ)子どもというものはその大半が本来的に「人づきあいがよい」のである。子どもにとって、孤立はおとなにとってよりも遙かに退屈なのである。・・共同体生活には先ず前もって、思考し計画することが要求されているのである。

経験と教育(デューイ)結論は、社会的統制の根源は、すべての個人が貢献する機会をもち、それに対して個々人が責任を感じるような社会的事業として行われる作業の性質そのもののなかに存在しているということである。しかもその社会的統制が必要とされる根拠は、新学校と呼ばれるもののなかに存在する。

経験と教育(デューイ)教師が秩序を保てたのは、秩序が生徒全員が分担しておこなっている作業のなかにあるのではなく、教師が生徒を管理し秩序を維持したことによったのである。

経験と教育(デューイ)伝統的学校では、・・教師の個人的な命令がはなはだ不当な役割を演じてきた・・・。また、そのような状況のもとでつくられていた秩序の大半が、おとなの意のままにひたすら服従させるといった事柄で占められていた・・伝統的学校は、共同活動に参加することによって、みんなが一緒になって保持されるようなゲームでも共同体でもなかった。

経験と教育(デューイ)(恣意的な行為と正当である公平である行為の相違は)大半の子どもは感じている。

経験と教育(デューイ)要点2:教師は生徒たちに対し確固として話をし、行動しなければならないときには、それは集団の利害のためになされるのであって、教師個人の力を表示するものであってはならない。このことは、恣意的な行為と正当で公平である行為との間に一線を画するものである。

経験と教育(デューイ)要点1:よく秩序づけられた学校では、だれかれの個人を統制するための主な拠り所は、ある状況のもとでおこなわれている活動にかかっているのであるが、その活動がまた維持されるのもその状況においてである。・・教師は、自分たちが個人的な方法で権威を行使しなければならないような場合を、極力最小限にとどめる。

経験と教育(デューイ)もっとも重要なことは、よく統制された家族または他の共同体集団のなかで問題の権威が行使されている場合、そのことは単なる個人的な意志の表明ではないということである。つまり、親や教師は権威を、全体としての集団の利害の代表者あるいは代行者として行使しているということになる。

経験と教育(デューイ)親が子供に干渉したり、またかなりの直接的な統制を行使したりするような特定の権威・・が行使される場合は、数のうえで、統制が集団の全員によって分担されている状況の場合にくらべると、わずかである。

経験と教育(デューイ)秩序を打ち立てるのは、一人ひとりの人間に意志や願望にあるのではなく、集団全体を推進させる精神なのである。しかもそのさい個人は共同体の一部であって、共同体の外部にあるのではない。

経験と教育(デューイ)ゲームで役割を分担している人たちは、自分たちが一人の個人によって切り回されているとか、ある外部からの上位に立つ人物の異のままに服従させられているなどとは感じていない。

経験と教育(デューイ)個人の行動の統制は、その個人が含まれ分担している協同的で相互作用的な役割をもっている全体的状況によって、効果的なものにされている。

経験と教育(デューイ)ゲームは規則をもっている。明白な統制的な特徴がある。第一に、規則はゲームの一部である。規則はゲームの外にあるのではない。第二、遊戯をしている個人が、時にゲームの進行上公平でないと感じ、しかも憤ることすらあるだろう。それは、ゲームの規則に対して反対しているのではなく、規則違反に対して、つまり一方的な不公平な行為に対して異議を唱えている。第三に、規則つまりゲームについての行為は、かなり標準化されているということ。

経験と教育(デューイ)普通の善良な市民が、事実上社会的統制によく服従していること、そしてこの統制のかなりの部分が個人的自由の制限を含んでいるということには気づいていないといことである。

経験と教育(デューイ)私は個人の自由と社会的統制という古くからの問題から議論を始めたい。

経験と教育(デューイ)経験を構成する基本的な二つの原理とは、相互作用の原理と連続性の原理である。


2017年1月29日|

「Tグループ」と「経験と教育」(デューイ)第1章「伝統的教育対進歩主義教育」

 私なりですが、ラボラトリー方式の体験学習とりわけ「Tグループ」と「経験と教育(ジョン・デューイ著/市村尚久訳、講談社学術文庫、2004)の第1章「伝統的教育対進歩主義教育」と重ねてみました。(長文になりますが、・・・)
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 改めて、「経験と教育」ジョン・デューイ著/市村尚久訳(講談社学術文庫)2004を読みながら、ラボラトリー方式の体験学習、とりわけ「Tグループ」に思いを馳せてみました。こうした記事がきっかけに、JIEL主催の「Tグループ」へのご参加の気持ちが動きましたら、幸いです。

 第1章「伝統的教育対進歩主義教育」から、「Tグループ」を運営するTグループファシリテーター(トレーナー)のありようと重ねてみたい、いや自省になればと思い、書き始めてみます。
 「上から教え込むことは、個性の表現と育成とを阻止することになる。外部からの訓練は、自由な活動を阻止することになる。」という視点を伝統的教育に対して批判的に論を繰り広げています。ただ、対立をあおるだけでは何の意味もないともデューイは明言しています。ただ、いかに経験(体験とあまり識別せずに、あえてデューイの訳から経験と記載)を通しての学習とは異なる一方的な学びの場になっているかの指摘かと思います。こうした、古典的な原著にあるような背景をもちながら、デューイの述べる進歩主義教育の一つの形として、ラボラトリー方式の体験学習が誕生してきたのだろうと思います。

 進歩主義教育は、「個人的経験のうえに教育を基礎づけ」ており、伝統的な教育より、「はるかによく成熟者と未成熟者との間に親密な接触がみられる」と教育者と学習者、または様々な環境要因と相互作用の必要性を記しています。後の章でも述べられますが、学習者の理解と環境要因の影響を深く考慮して教育計画は立てられるべきであると。

 また、経験を尊重し、新しい教育で自由を強調すると、「教育者による指示や指導があれば、それらがどのような形式のものであっても、それらは生徒個人の自由を侵害するかのように」とられてしまうが、そのことに縛られてしまい自由を失ってしまう可能性があると考えています。極端に、Tグループやベーシック・エンカウンター・グループで、指示したり教えたりする行為が学習者の主体性を失わせるのでやめた方がよいといった意見と重ね合わせることができるのではないでしょうか?もう一度、自由の意味するものとは何か?自由の実現可能な条件とは何かを考えてみましょうというのが、デューイの第2章以降の話の流れになっています。

 教育者の提供する過去の知識が問題なのではなくて、「過去の業績と現在の問題との間にある経験の内部に実際に存在する関連性を発見する」ことが大切なのであって、「われわれは過去を知ることが、どのように未来を効果的に取り扱う点で、有力な道具に転換されうるのか」について確かめなければならないのだと述べています。まさに、「今ここ」での体験とこれまでの過去、そしてこれから生きていく未来とをつなぎ合わせることを支援するようなTグループファシリテーター(トレーナー)のありようが求められていると考えてもよいのではないでしょうか。


ジョン・デューイ「経験と教育」:第3章「経験の基準」

 経験と教育(ジョン・デューイ)第3章「経験の基準」では、連続性と相互作用という二つの原理は、相互に分離しているものではないとのべ、連続性の原理に従って、先に起こったものから後に起こるものへと持ち越される何かがあると考えている。個人が一つの状況で知識や技能を学んだことは、それに続く状況を理解し、それを効果的に処理する道具になる。この過程は、生活と学習が続く限り進行する。そうでなければ、経験の進路は無秩序なものになる。つまり、経験をつくり出すさいに入り込む個人的要素が分裂するからである。・・十全なかたちで統合された人格は、連続的経験が相互に統合されているときのみ存在する。十分に統合された人格は、道後に関連する対象物の世界が構成されたときにおいてのみ、構築される。
 この記載が「経験の基準」の大きなテーマになるだろう。そして、次に述べる「相互に能動的に結合している連続性と相互作用とが、経験の教育的意義と価値をはかる尺度を提供する。教育者の関心の的は相互作用が生じる状況であり、この状況に個人が一つの要素として入り込んでこそ、その時点ではじめて個人は具体的な自分自身であることになる。」このことは、体験学習をデザインするときにとても重要な視点だと思う。いかに学習者の内的な過程を共感をもってキャッチしながら、学び、体験の外的な環境をデザインするか、これが大切になるのでしょう。そして、経験を通して学ぶことは、遠い未来への準備のための教育ではなく、今ー明日とつながり役に立つ学びの経験であり、その結果、「形成されうる最も重要な態度は、学習を継続していこうと願う態度である。」とデューイは述べています。

下記の記述は、「経験と教育」ジョン・デューイ著、市村尚久訳(講談社学術文庫)より抜き書きしたものです。関心を持たれましたら、本書をご購入いただき、お読みください。

経験と教育(デューイ)成熟した人こそ、未来に対し有形で好ましい影響をあたえるような種類の現在の経験のための条件を、制度化する責任が負わされているのである。成長あるいは成熟としての教育は、常に現在の過程でなければならない。

経験と教育(デューイ)われわれはそれぞれ現時において、それぞれの現在の経験の十分な意味を引き出すことによって、未来において同じことをするための準備をしているのである。このことこそが、長い目で見ると、将来に帰するところの何かになるための唯一の準備にほかならないのである。

経験と教育(デューイ)もし学習の過程において、個人がほかならぬ自分自身の魂を失うならば、価値ある事物やその事物に関連する価値に対して批評する能力を失うならば、さらにまた学んだことを適用したいという願望を失うならば、とりわけこれから起こるであろう未来の経験から意味を引き出す能力を失うならば、地理や歴史について規定されている知識量を獲得したところで、また読み書きの能力を獲得したところで、それが何の役に立つというのだろうか。

経験と教育(デューイ)形成されうる最も重要な態度は、学習を継続していこうと願う態度である。

経験と教育(デューイ)あらゆる教育学的な誤りのうちで最大のものは、人はその時点で学ぶ特殊な事柄だけを学習テイルという考え方である。好きなことを持続させ、嫌いなことを耐え忍んでいく態度が形成される仕方にみられるような、付随的な学習のほうが、綴り字(スペリング)の授業や地理や歴史の授業で学習することよりもはるかに重要なものである。

経験と教育(デューイ)伝統的教育では、のちに(おそらく大学生活や成人の生活で)必要とされる一定の技能を獲得し、一定の教科を学ぶことによって、生徒は未来の必要や環境に対して準備するのは当然のことである、という仮定である。この「準備」というのは、当てにならない観念である。

経験と教育(デューイ)教育に適用される連続の原理は、教育過程それぞれの段階において、未来というものが考慮されなければならないことを意味する。

経験と教育(デューイ)生徒たちは教材を外部からの処方箋に盛られた一服量として飲み込むことが期待された。・・教材を個人の欲求と能力に適応させることができなかったことが、個人が教材に適合することができないことと全く同様に、そこでは経験を非教育的なものにしているのである。

経験と教育(デューイ)個人の欲求や能力に適応することに考慮を払わない傾向が、ある種の教科や方法が本質的に教養的であり、本質的に精神的訓練に好適であるという考え方の根拠であった。

経験と教育(デューイ)伝統的な教育の難点は、教育者が経験を創造するにさいしての他の要素、すなわち教育される者たちの能力や目的を考慮しなかったことにあった。

経験と教育(デューイ)教育者の能力とそれによって他者が獲得する教育とが、価値ある経験を創造するよう教えられた人びとが、現にもっている能力や欲求と相互作用するであろう環境を決定するのである。その決定は教育者の義務としてなされることが求められている。

経験と教育(デューイ)もう一つの要素は、「客観的条件」である。その用語には、教育者によってなされたことやそれがなされる方法やを包含し、話された言葉だけではなく、言葉が話される音声の調子をも包含する。それはまた、設備、書物、装置、玩具、遊ばれるゲームをも包含する。それは個人が相互作用する材料を包含し、またすべてのもののなかで最も重要なものとして、個人が従事させられる状況の全体的「社会的」な機構をも包含するものである。

経験と教育(デューイ)相互に能動的に結合している連続性と相互作用とが、経験の教育的意義と価値をはかる尺度を提供する。教育者の関心の的は相互作用が生じる状況であり、この状況に個人が一つの要素として入り込んでこそ、その時点ではじめて個人は具体的な自分自身であることになる。

経験と教育(デューイ)連続性と相互作用という二つの原理は、相互に分離しているものではない。連続性の原理に従って、先に起こったものから後に起こるものへと持ち越される何かがある。個人が一つの状況で知識や技能を学んだことは、それに続く状況を理解し、それを効果的に処理する道具になる。この過程は、生活と学習が続く限り進行する。そうでなければ、経験の進路は無秩序なものになる。つまり、経験をつくり出すさいに入り込む個人的要素が分裂するからである。・・十全なかたちで統合された人格は、連続的経験が相互に統合されているときのみ存在する。十分に統合された人格は、道後に関連する対象物の世界が構成されたときにおいてのみ、構築される。

経験と教育(デューイ)経験は、常に、個人とそのときの個人の環境を構成するものとの間に生じる取引的な業務であるがゆえに存在するのである。しかもその個人の環境は、ある話題や出来事についての話し相手から構成されている。

経験と教育(デューイ)個人が世界のなかで生きるという言明は、具体的には、個人が状況の連続のなかに生きていることを意味する。・・「なかに」の意味は、相互作用が個人と対象物あるいは他の人との間で進行していることを意味する。「状況」とか「相互作用」という概念は、相互に分離しては成り立たない概念である。

経験と教育(デューイ)経験というものは、経験しつつある個人の内部で進行しているものに従属させられてこそはじめて真の経験であるといってよいのである。

経験と教育(デューイ)教育される個人に内在する主観的条件に、客観的条件をかなり組織的に従属させるような教育計画を立てることは可能である。ーー外部からの統制を押しつけたり、個人の自由を制限するようなことをしないではじめて、このような客観的要因が重要性をましてくるのである。

経験と教育(デューイ)教育者は、価値ある経験の形成に寄与するにちがいないすべてのものが引き出せるようにと存在している環境ーーー慈善的、社会的なーーーをどのように利用すべきであるか、そのことを知らなければならない。

経験と教育(デューイ)教育者の基本的な責任は年少者たちが周囲の条件によって、彼らの現実の経験が形成されるという一般的な原理を知るだけではなく、さらにどのような環境が成長を導くような経験をする上で役立つかについて、具体的に認識することである。

経験と教育(デューイ)経験は真空のなかで生起するのではない。言うまでもないことである。経験を引き起こす源は、個人の外にある。

経験と教育(デューイ)要するに、われわれは生まれてから死ぬまで、人と事物の世界に生きているが、その世界の大部分はすでに為されてしまったものであるがゆえに存在しおり、また以前からの人間の活動から伝えられてきたものである。

経験と教育(デューイ)経験は、単に個人の内面だけで進行するものではない。経験は確かに、個人の内面で進行している。というのは、経験は願望や目的といった態度の形成に影響を及ぼすからである。あらゆる真の経験は、その経験がなされる客観的条件をある程度変化させるという積極的な側面をもっている。

経験と教育(デューイ)教育者は未成熟者個人を個人として共感する理解力をもたなければならない。その共感力が、学習している人々の精神のなかで実際に進行しているものについてのアイディアを、教育者に与えてくれる。このような共感する能力が、なによりも親と教師の側に求められる。

経験と教育(デューイ)不誠実な行為は、二つの方向ではたらくことになる。そのような教育者は、自分自身の過去の経験から獲得しなければならないことについてわかっていない。また、人間の経験はすべて究極において社会的であるという事実、つまりそれには触れ合いとコミュニケーションが含まれているという事実に対して誠実に対応できない。

経験と教育(デューイ)経験を動いている力として判断し、そのような力を指導するよう経験の動力を考慮しないようでは、教育者は経験の原理それ自体に誠実に対応していないことになる。

経験と教育(デューイ)経験の価値は、経験が向かっていき、そこに入り込んでいくという動きに基づいてのみ判断されうるものである。経験がどのような方向をとっているのかを知ることが、教育者の仕事になる。

経験と教育(デューイ)もし経験が好奇心を喚起し独創力を高め、未来の死の場所に人を誘うぐらいに強烈な願望や目的を創り出すならば、その経験は連続してきわめて様々な方法で働いているのである。経験というものはいずれもみな動きゆく動力なのである。

経験と教育(デューイ)成長、または、単に身体的にだけではなく、知的にも道徳的にも発達するものとしての成長することは、連続の原理の一つの例証にほかならない。・・成長は多くの異なった方向をとりうる・・強盗をするという経歴から出発し、・・高度に熟達した強盗人間に成長することだってある

経験と教育(デューイ)個人の自由や人間関係における礼節や親切を尊重するという原理は、つまるところ、これらのことがが抑制や強圧や暴力の方法によるのではなく、これらを尊重する多数者の側の経験が質的により高次なものになることに貢献するという信念に帰着している

経験と教育(デューイ)民主的な社会的取り決めは、非民主的ないし反民主的な社会生活の形態よりも、一般的に広く親しく享受されるという信念、すなわちそれは人間経験の一段とすぐれた質を増進するという信念に最終的に帰着する。

経験と教育(デューイ)もう一つの理由は、伝統的学校の教育政策にあまりにもしばしば付きまとう苛酷さにくらべて、進歩主義運動の教育方法には人間味があるということ

経験と教育(デューイ)進歩主義教育が受け容れられる理由の一つは、伝統的学校の教育手順が多分に専制的であるため、それよりも進歩主義運動のほうが、我が国民が委ねる民主主義の理念に調和しているようにみえる・・

経験と教育(デューイ)連続とか経験的連続性といったカテゴリーは、教育的に価値のある経験とそうでない経験との間を識別するためのあらゆる試みに関わりをもっている。


2017年1月27日|

経験と教育(ジョン・デューイ)を読む:第2章「経験についての理論の必要」編

経験と教育(デューイ)第2章「経験についての理論の必要」の章では、経験には、それが快適なものであるかといった直接的な側面と、経験がその後の経験にどのように影響を及ぼすかという側面である。未来の望ましい経験につながる経験の連続性の原理の理解が大切である。その原理は、単純であるが容易なことではない。新教育に相応しい種類の教材、方法、そして社会関係を創り出すことのほうが、伝統的教育の場合よりはるかに困難な課題なのである。それを実現する新教育においては組織化による自動的な判断する傾向から脱却する必要がある。

経験と教育(デューイ)伝統的教育を特徴づけている組織化というものが、たとえそれが教育内容(あるいは教材)の組織化であるにせよ、また教育の方法や社会関係についての組織化であるにせよ、その組織化の種類によって、組織化というものを考える傾向から脱却しなければならない#JIEL_Labo

経験と教育(デューイ)新教育は成長の原理と調和しているが、他方、旧教育では教材や方法の選択や、その配列に人為的なものが多くはいり込み、その時に性が常に不必要な複雑性を導き出している。しかし、「易しいこと」と「単純なこと」とは同一のことがではない。#JIEL_Labo

経験と教育(デューイ)新教育に相応しい種類の教材、方法、そして社会関係を創り出すことのほうが、伝統的教育の場合よりはるかに困難な課題なのである。・・私はよろこんで、新教育が原理上、旧教育よりも単純であることを認めるものである。 #JIEL_Labo

経験と教育(デューイ)哲学について、民主主義に関するリンカーンの言葉に言い換えて、経験の、経験による、経験のための教育に関する哲学であると述べた。 #JIEL_Labo

経験と教育(デューイ)教育は経験の内部での、経験による、経験のために発展することが、より一段と明確に、より一段と明確に、よりいっそう誠実に主張されればされるほど、経験とは何であるかその概念が明確になってくるであろう。#JIEL_Labo

経験と教育(デューイ)経験に根ざした教育の中心的課題は、継続して起こる経験のなかで、実り豊かに創造的に生きるような種類の現在の経験を選択することにかかっているのである。→経験の連続性の原理へと続く  #JIEL_Labo

経験と教育(デューイ)誰一人自分自身のために生き、死ぬわけではないのと同様に、いかなる経験もそれ自体で生きたり死んだりはしなものである。あらゆる経験は、願望や意志とはまったく無関係に、引きつづき起こってくる更なる経験のなかに生きるのである。 #JIEL_Labo

経験と教育(デューイ)経験が生徒に不快感を与えず生徒の活動を鼓舞するものであるとしても、その経験が未来に望ましい経験をもたらすように促すためには、直接的な快適さをはるかに超えた種類の経験が求められる・。このような質的経験を整えることこそ教育者に課せられた仕事。#JIEL_Labo

経験と教育(デューイ)何よりも重要なことは、もたれる経験の「質」にかかっているのである。いかなる経験の質も、二つの側面をもっている。すなわち、それが快適なものであるかといった直接的な側面と、経験がその後の経験にどのように影響を及ぼすかという側面である。 #JIEL_Labo

経験と教育(デューイ)旧教育を非難するためではなく2つの目的から疑問・第一に、伝統的学校での年少者もまた経験をもっていること、第二に伝統的学校では経験が欠如しているというのではなく、そこでなされる経験の誤った欠陥のある性格–未来の経験に接続するという見地–#JIEL_Labo

経験と教育(デューイ)伝統的教育はこの種の経験を例示するのに事欠かない。旧い教育を攻撃するにふさわしい言い方として・・学習意欲を失わせた・・生徒たちの判断力や新しい場面に応じての知的行動力が、どれほど制約を受けたか・・学習したことが学校以外の生活の場とは無縁・#JIEL_Labo

経験と教育(デューイ)ある経験は、即時的には楽しいものであるが、それは怠慢で軽率な態度の形成を助長することになる。ところが、このような態度は、さらに引き続き起こってくる経験を変質させてる働きをし、その後の経験から与えられるものを得ることができないようにさせる #JIEL_Labo

経験と教育(デューイ)どのような経験も、つぎに展開してくる更なる経験の成長を阻止したり歪めたりするような影響をもたらすようでは、それは非教育的なものであるといわざるをえない。・・ある経験は、感受性を欠落させ、物事に反応しない状況を生み出すかもしれない。 #JIEL_Labo

経験と教育(デューイ)真実の教育はすべて、経験をとおして生じるという信念があるが、そのことはすべての経験が本当に教育的なもので、またすべての経験は同等なものであるということを意味するものではない。 #JIEL_Labo

経験と教育(デューイ)経験および実験というものは説明を要しない、つまり自明の思考様式ではない。むしろ経験や実験の意味するところは、探求されるべき問題の一部なのである。経験主義の意味を知るために、われわれは経験とは何であるかについて理解する必要がある。 #JIEL_Labo

経験と教育(デューイ)伝統的な哲学や実践が拒絶されるとなると、新しいタイプの教育を信じている人たちに、教育上新しいタイプの難問がなべかけられてくるということ・・つまりわれわれが旧教育から離脱したところで問題の解決にはならない・・#JIEL_Labo


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