「Tグループ」と「経験と教育」(デューイ)第1章「伝統的教育対進歩主義教育」

私なりですが、ラボラトリー方式の体験学習とりわけ「Tグループ」と「経験と教育(ジョン・デューイ著/市村尚久訳、講談社学術文庫、2004)の第1章「伝統的教育対進歩主義教育」と重ねてみました。(長文になりますが、・・・)
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改めて、「経験と教育」ジョン・デューイ著/市村尚久訳(講談社学術文庫)2004を読みながら、ラボラトリー方式の体験学習、とりわけ「Tグループ」に思いを馳せてみました。こうした記事がきっかけに、JIEL主催の「Tグループ」へのご参加の気持ちが動きましたら、幸いです。

第1章「伝統的教育対進歩主義教育」から、「Tグループ」を運営するTグループファシリテーター(トレーナー)のありようと重ねてみたい、いや自省になればと思い、書き始めてみます。
「上から教え込むことは、個性の表現と育成とを阻止することになる。外部からの訓練は、自由な活動を阻止することになる。」という視点を伝統的教育に対して批判的に論を繰り広げています。ただ、対立をあおるだけでは何の意味もないともデューイは明言しています。ただ、いかに経験(体験とあまり識別せずに、あえてデューイの訳から経験と記載)を通しての学習とは異なる一方的な学びの場になっているかの指摘かと思います。こうした、古典的な原著にあるような背景をもちながら、デューイの述べる進歩主義教育の一つの形として、ラボラトリー方式の体験学習が誕生してきたのだろうと思います。

進歩主義教育は、「個人的経験のうえに教育を基礎づけ」ており、伝統的な教育より、「はるかによく成熟者と未成熟者との間に親密な接触がみられる」と教育者と学習者、または様々な環境要因と相互作用の必要性を記しています。後の章でも述べられますが、学習者の理解と環境要因の影響を深く考慮して教育計画は立てられるべきであると。

また、経験を尊重し、新しい教育で自由を強調すると、「教育者による指示や指導があれば、それらがどのような形式のものであっても、それらは生徒個人の自由を侵害するかのように」とられてしまうが、そのことに縛られてしまい自由を失ってしまう可能性があると考えています。極端に、Tグループやベーシック・エンカウンター・グループで、指示したり教えたりする行為が学習者の主体性を失わせるのでやめた方がよいといった意見と重ね合わせることができるのではないでしょうか?もう一度、自由の意味するものとは何か?自由の実現可能な条件とは何かを考えてみましょうというのが、デューイの第2章以降の話の流れになっています。

教育者の提供する過去の知識が問題なのではなくて、「過去の業績と現在の問題との間にある経験の内部に実際に存在する関連性を発見する」ことが大切なのであって、「われわれは過去を知ることが、どのように未来を効果的に取り扱う点で、有力な道具に転換されうるのか」について確かめなければならないのだと述べています。まさに、「今ここ」での体験とこれまでの過去、そしてこれから生きていく未来とをつなぎ合わせることを支援するようなTグループファシリテーター(トレーナー)のありようが求められていると考えてもよいのではないでしょうか。