畝傍山

 耳成山、天香久山。大和三山と数えられるもう一山は、畝傍山です。
 昨年、神武天皇陵へ向かう砂利道を歩き、途中左に折れて木立の中を、開けて民家の間の細い道を辿り、橿原神宮に辿り着く、畝傍山を一周する“旅”をしました。
 今年もと思い、歩き始めます。玉砂利を歩く音は、これから歩く畝傍の道に足を速めましたが、木立の森は短く感じ、朝露に濡れた草木の小道も昨年から残っている像を取り戻すのに役立っているだけです。なぜか楽しさは減り、その道はこなしている過程となってしまっている。奈良に行く前は、あれほど畝傍の一巡を楽しみにしていたのに、それはもはや色褪せた、課していく時となってしまった。
 歩きながら考えました。目標がいけない。去年は当てもなく、この道はどこにつながっているのか、あの角を曲がるとどこに連れて行ってくれるのか、こんなところにこんなものがある。そんな期待と少しばかりの不安が入り混じっていた。そして今は、昨年の手順を追い、ワクワク感もドキドキ感もない。
 もともと目標なんかなかったのに、「一周する」という目標を決めたために、それに従い、それに縛られ、気楽さも、気ままさもなくしてしまった。
 そんなことを思いながら、その日は一巡を終えました。
 目標を失った次の日。初となる畝傍山登頂に臨むことにしました。どこが登山口かわからない。だんだん細く、登っていく道を詰めていきます。下から見るとそれほど高い山ではないのだけれど、木の株は這い、滑る石はある。この道は頂上に向かうのか。流れる汗を拭き拭き、登ること20分弱。
 頂上は木々が覆い、遠く生駒山地が見えます。なぜか人が多く、聞けばラジオ体操をするために毎日登ってくる人もいるのだとか。しばし、汗が引くのを待ち、今度は違う道を下ります。
 下りは速く、降りればそこはどこかわからない。おそらく橿原神宮の一画。感で歩き、神宮の鳥居を抜け、ホテルに戻りました。
 シャワーを浴びながら思いました。目標などいらなかった。目的地は畝傍山の頂上だったかもしれないけれど、それはそれとしてそこでの時間や場所を、そしてその時々に自分に湧きあがってくるものを楽しむ、それが自分の“旅”なのだなあ、と思いました。
 ただ、今度行く時は、革靴はやめておこうと思っています。