易経に学ぶファシリテーション(20)

■ファシリテーターとしての第六段階「亢龍(こうりゅう)」
 「亢龍(こうりゅう)」とは、たかぶって、亢(あらがう)龍のことだそうです。どんなに亢(あらが)っても、天から落ちていく運命になるのだそうです。
 「亢龍(こうりゅう)悔いあり」抗龍には後悔があるだろうと。
 「亢龍(こうりゅう)」が亢(あらがう)のは、「飛龍(ひりゅう)」ステージに上ると、失うこと、退くことが嫌なのです。一度、「亢龍(こうりゅう)」になると、たとえ退いたとしても、もう「飛龍」に戻れないのだそうです。いずれ後悔するために「悔いあり」と書かれているようです。
 このことは、陽の状態では、前に前に進み、マイナス思考を嫌い、プラス思考で進み、進むことばかりでとどまることを知らないからです。結果として、雲を突き抜け、龍は肝心な雨を降らす働きができなくなってしまうのです。志を忘れた亢龍はもう龍ではありませんと書かれています。亢龍はもう地に降りるしかないのです。
 降りるために、二つの方法があると書かれています。一つは、失墜するのか自ら降りるのかだそうです。どちらが当人にとって余裕をもった降り方ができるかは、後者です。それが、この亢龍の時代には大切な仕事になるのです。降りていくタイミングをつかむためのサインは、放たれているとも言われます。そのサインを見落とすことなく、亢龍となって、降りていくことを意識することも大切なのだろうと思います。
 あっこちゃんは、「亢龍が地位にしがみつかず、時をわきまえて自らリーダーを退いたならば、その才を役立てていくことができます。」と書いてくれています。
 今の私の心境はこれに近いのかもしれません。今、大学の現役を降りる時、今の職にこだわらず、いちどゆっくりと「潜龍」の世界に潜り、もう一度、新しい人生を送る準備も必要かもしれないと考え始めています。
 私も次第に衰えは感じつつあります。そして、南山大学において教鞭をとることも、スポーツ的な体力勝負的な私の授業「ラボラトリー方式の体験学習を用いた実践」には、そろそろ体力的な限界も感じなくはありません。どのようにこのステージを過ごすのかが、大きな課題です。
 そんような状況で、退職を意識し始めたのは、ここ数年でしょうか。その中で、これまで学部教育の中で、ファシリテーションを直接扱う授業をあまり展開してきていないことに気づきました。そこで、学部の専門科目として、人間関係プロセス論では、サブタイトルに「ファシリーテーション・アプローチ」とつけて、2コマ15週の授業は徹底して、「ファシリテーター」「ファシリテーション」に商店をあてた授業を行っています。また、学部学生のために、「ファシリテーション研究ゼミ」を創設して、徹底して「ファシリテーション」の実践力を身につけるために、授業は学生主体で、また社会人の方々との交流も積極的にするように展開してきています。また、大学院生の方々、また大学院修了者のみなさんとも、交流をしながら新しい展開というか、ラボラトリー方式の体験学習の実践者の継承をどのようにするかが大きな課題として受け取っています。
 来年の春(2015年3月末)には、南山大学を退職することになります。ただ、それで池の淵に身をおろしてしまうのではなく、もう少しゆっくりと身をおろすことができればと考えています。その地としては、今は、日本体験学習研究所(JIEL:Japan Institute for Experiential Learning)を基地に、今の私にできることを少しずつでも実践と研究を進めながら羽を下ろそうと考えています。
 ただ、こうして自らのラボラトリー方式の体験学習のファシリテーター(教育者)としての学びの遍歴を考える機会が「易経」との出会いの中にあったことに感謝します。こうした「易経」と出会い、少しでも新しいことを吸収しようとしていること自身、自分で言うのもなんですが、一気にどん底に落ちてしまうのではなく、無事に着陸するためにも必要なことではないかと考えています。このことを気づかせてくれたのは、はやり「易経」でした。まだまだ「易経」理解の旅は続けたいと考えています。
 「易経から学ぶファシリテーション」シリーズは一度(20)で筆を置きます。いや、タイプを止めます。この6つのステージに関して、リーダーとして考えることや教えについて、さらなる詳細な知見は、「リーダーの易経『兆し』を察知する力をきたえる」竹村亞希子著(角川SSC新書)をぜひお読みください。しばらく、潜って学びを深めてみたいと思います。また、新たに、「易経から学ぶファシリテーション」が出た折にはよろしくお願いします。
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