所長ブログ

2017年2月1日|

ジョン・デューイ「経験と教育」:第4章「社会的統制」

 経験と教育(ジョン・デューイ)第4章「社会的統制」では、普通の善良な市民が、事実上社会的統制によく服従していること、そしてこの統制のかなりの部分が個人的自由の制限を含んでいるということには気づいていないとデューイは述べる。まさに、社会的統制は、どのような状況にも起こっていることを認識すべしといったところでしょうか。それは、スポーツのゲームの規則のようなもので、メンバー全員で認識されて公平に行われているときはあまり意識されない。親や教師は権威を、全体としての集団の利害の代表者あるいは代行者として行使していると考えている。
 子どもにとってみると、恣意的な行為と正当である公平である行為の相違は、大半の子どもは感じてわかっているのです。いかに特定の人や事柄に対しての影響力ではなく、コミュニティ、グループ全体に公平に影響を与えることができるような集団活動の指導屋になることの大切さをデューイは述べています。

下記の記述は、「経験と教育」ジョン・デューイ著、市村尚久訳(講談社学術文庫)より抜き書きしたものです。関心を持たれましたら、本書をご購入いただき、お読みください。

経験と教育(デューイ)教育が経験に基礎づけられ、教育的経験が社会過程であるとみられるとき、そこにみられる状況は根本的に一変してくる。つまり、教師は外部的な支配者あるいは独裁者としての立場を失って、集団の活動の指導者としての立場をとることになる。

経験と教育(デューイ)経験の発達が相互作用から生じるという原理は、教育が本質的に社会過程であることを意味する。この性質は、個々の生徒たちが共同体集団の形成にかかわる程度に応じて実現される。・・教師というものは、共同体集団のなかで最も成熟した成員であるので、その共同体生活そのものである相互作用と相互伝達の行為について、教師ならではの特別の責任をもっている。

経験と教育(デューイ)教育計画は、経験する個人の自由が、個別的に展開されるふさわしく十分柔軟なものであるのと同時に、他面において、個人の能力が持続的に発展する方向をしっかりと示すにふさわしいものでなければならない。

経験と教育(デューイ)教師によって準備された教育計画は、厳密に固定された知的なやり方でつくられているので、その計画が生徒個人の自由を尊重するものであるといったところで、いざその計画を実施するとなると、その自由は如才なく見せかけの外的なものとなるのである。結局、自由は外的なもの、つまりおとなの押しつけにすぎないものとなる。

経験と教育(デューイ)状況を創り出す作業を前もって用意することに失敗したことから生じる。・・前もっての計画立ては不要であるという考え方にあり、また教授されるものがもつ正当な自由に敵対する考え方である。

経験と教育(デューイ)子どもというものはその大半が本来的に「人づきあいがよい」のである。子どもにとって、孤立はおとなにとってよりも遙かに退屈なのである。・・共同体生活には先ず前もって、思考し計画することが要求されているのである。

経験と教育(デューイ)結論は、社会的統制の根源は、すべての個人が貢献する機会をもち、それに対して個々人が責任を感じるような社会的事業として行われる作業の性質そのもののなかに存在しているということである。しかもその社会的統制が必要とされる根拠は、新学校と呼ばれるもののなかに存在する。

経験と教育(デューイ)教師が秩序を保てたのは、秩序が生徒全員が分担しておこなっている作業のなかにあるのではなく、教師が生徒を管理し秩序を維持したことによったのである。

経験と教育(デューイ)伝統的学校では、・・教師の個人的な命令がはなはだ不当な役割を演じてきた・・・。また、そのような状況のもとでつくられていた秩序の大半が、おとなの意のままにひたすら服従させるといった事柄で占められていた・・伝統的学校は、共同活動に参加することによって、みんなが一緒になって保持されるようなゲームでも共同体でもなかった。

経験と教育(デューイ)(恣意的な行為と正当である公平である行為の相違は)大半の子どもは感じている。

経験と教育(デューイ)要点2:教師は生徒たちに対し確固として話をし、行動しなければならないときには、それは集団の利害のためになされるのであって、教師個人の力を表示するものであってはならない。このことは、恣意的な行為と正当で公平である行為との間に一線を画するものである。

経験と教育(デューイ)要点1:よく秩序づけられた学校では、だれかれの個人を統制するための主な拠り所は、ある状況のもとでおこなわれている活動にかかっているのであるが、その活動がまた維持されるのもその状況においてである。・・教師は、自分たちが個人的な方法で権威を行使しなければならないような場合を、極力最小限にとどめる。

経験と教育(デューイ)もっとも重要なことは、よく統制された家族または他の共同体集団のなかで問題の権威が行使されている場合、そのことは単なる個人的な意志の表明ではないということである。つまり、親や教師は権威を、全体としての集団の利害の代表者あるいは代行者として行使しているということになる。

経験と教育(デューイ)親が子供に干渉したり、またかなりの直接的な統制を行使したりするような特定の権威・・が行使される場合は、数のうえで、統制が集団の全員によって分担されている状況の場合にくらべると、わずかである。

経験と教育(デューイ)秩序を打ち立てるのは、一人ひとりの人間に意志や願望にあるのではなく、集団全体を推進させる精神なのである。しかもそのさい個人は共同体の一部であって、共同体の外部にあるのではない。

経験と教育(デューイ)ゲームで役割を分担している人たちは、自分たちが一人の個人によって切り回されているとか、ある外部からの上位に立つ人物の異のままに服従させられているなどとは感じていない。

経験と教育(デューイ)個人の行動の統制は、その個人が含まれ分担している協同的で相互作用的な役割をもっている全体的状況によって、効果的なものにされている。

経験と教育(デューイ)ゲームは規則をもっている。明白な統制的な特徴がある。第一に、規則はゲームの一部である。規則はゲームの外にあるのではない。第二、遊戯をしている個人が、時にゲームの進行上公平でないと感じ、しかも憤ることすらあるだろう。それは、ゲームの規則に対して反対しているのではなく、規則違反に対して、つまり一方的な不公平な行為に対して異議を唱えている。第三に、規則つまりゲームについての行為は、かなり標準化されているということ。

経験と教育(デューイ)普通の善良な市民が、事実上社会的統制によく服従していること、そしてこの統制のかなりの部分が個人的自由の制限を含んでいるということには気づいていないといことである。

経験と教育(デューイ)私は個人の自由と社会的統制という古くからの問題から議論を始めたい。

経験と教育(デューイ)経験を構成する基本的な二つの原理とは、相互作用の原理と連続性の原理である。


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